・・・彼は世界の災厄の原因と、国家の混乱と顛倒とをただすべき依拠となる真理を強く要請した。「日本第一の知者となし給へ」という彼の祈願は名利や、衒学のためではなくして、全く自ら正しくし、世を正しくするための必要から発したものであった。 善と・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・い日は無かった―― 三年振で別れた妻に逢って見た大塚さんは、この平素信じていたことを――そうだ、よく彼女に向って、誰某は女でもなかなかのシッカリものだなどと言って褒めて聞かせたことを、根から底から転倒されたような心地に成った。「シッカリ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・よっぽど濃密の関係で自分と他者と転倒しているくらいの場合に、いわば病的に自分が死ぬる。または極局身後の不名誉の苦痛というようなものを想像して自分が死ぬることもある。所詮同情の底にも自己はあるように思われてならない。こんな風で同情道徳の色彩も・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・息子戦死の報を聞くや、つと立って台所に行き、しゃっしゃっと米をといだという母親のぶざまと共に、この男の悲しみの顛倒した表現をも、苦笑してゆるしてもらいたい。 ずいぶんたくさん書くことを用意していた筈なのに、異様にこわばって、書けなくなっ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・木の根に躓いて顛倒しそうになっても、にこりともせず、そのまま、つんのめるような姿勢のままで、走りつづけた。いつもは、こんな草原は、蛇がいそうな故を以て、絶対に避けて通ることにしているのであるが、いまは蛇に食い附かれたって構わぬ、どうせ直ぐに・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大の竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、 わたしゃ 売られて行くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・私だけでも落ちついて、立派な指図をしたいと思ったのだが、やはり私は、あまりの事に顛倒し、狼狽し、おろおろしてしまって、かえってHたちに軽蔑されたくらいであった。何も出来なかった。そのうちに洋画家は、だんだん逃腰になった。私は、苦しい中でも、・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・たしかに私は、あの、悠然と顛倒していた組に、ちがいなかった。江戸の小咄にも、あるではないか。富籤が当って、一家狂喜している様を、あるじ、あさましがり、何ほどのこともないさ、たかが千両、どれ銭湯へでも行って、のんびりして来ようか、と言い澄まし・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ ペリカンのひながよちよち歩いては転倒する光景は滑稽でもあり可憐でもある。鳥でも獣でも人間でも子供にはやはり子供らしい共通の動作のあることが、いつもこの種類の映画で観察される。たよりない幼いものに対する愛憐の情の源泉がやはり本能的なもの・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・衣服の左前なくらいはいいとしても、また髪の毛のなでつけ方や黒子の位置が逆になっているくらいはどうでもなるとしても、もっと微細な、しかし重要な目の非対称や鼻の曲がりやそれを一々左右顛倒して考えるという事は非常に困難な事である。要するに一面の鏡・・・ 寺田寅彦 「自画像」
出典:青空文庫