・・・この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・かつ初めより諸種の例に引きたる句多く新奇なるをもって特にここに拳ぐるの要なしといえども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用いし句を少し記しおくべし。野袴の法師が旅や春の風陽炎や簣に土をめつる人奈良道や当帰畠の花一木畑・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 思わず一歩退いて、胸を拳でたたきながら、「陽ちゃんたら」 やっと聞える位の声であった。「びっくりしたじゃないの。ああ、本当に誰かと思った、いやなひと!」 椅子の上から座布団を下し、縁側に並べた。「どんな? 工合」・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ あまり怒って言葉の出ない栄蔵は、膝の上で両手を拳にして、まばらな髭のある顔中を真青にして居る。額には、じっとりと油汗がにじんで居る。 夜着の袖の中からお君の啜泣きの声が、外に荒れる風の音に交って淋しく部屋に満ちた。 昨日、栄蔵・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升って、拳が固く握られた。「ふん。そんなら敵討は罷にするのか」 宇平は軽く微笑んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃあり・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・左の手の拳を開いて見せた。右の手が貨の相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文につけたのである。「気張るぞ」と今一人の船頭が言って、左の臂をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、ついで示指を竪てて見せた。この男は佐渡の二郎で六貫・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ ツァウォツキイは拳を振り上げた。「泣きゃあがるとぶち殺すぞ。」 こう云っておいて、ツァウォツキイはひょいと飛び出して、外から戸をばったり締めた。そして家の背後の空地の隅に蹲って、夜どおし泣いた。 色の蒼ざめた、小さい女房は独り・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・紅の襞は鋭い線を一握の拳の中に集めながら、一揺れ毎に鐶を鳴らして辷り出した。彼は枕を攫んで投げつけた。彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 再び勘次は横さまに拳を振った。秋三は飛びかかった。と忽ち二人は襟を握って、無数の釘を打ち込むように打ち合った。ばたりと止めて組み合った。母親達は叫びを上げた。彼女達は、夫々自分の息子を引き放そうとした。が、二人の塊りは無言のまま微かな・・・ 横光利一 「南北」
・・・歯ガミをする。拳に力がはいって来るが、それのやり場がない。後ろを見るとまだ次の電車は見えない。また先の電車を見る。見まもっている内に次の停留場で止まってまた動き出す。やがて坂をおりてだんだん見えなくなる。あれに乗っていればもうあんなに遠く行・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫