・・・これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです」 しかしその時の煙客翁は、こういう主・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・私は冷汗を拭いながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷いました。が、心配そうな妻の顔を見ては、どうして、これが打明けられましょう。私はその時、この上妻に心配させないために、一切第二の私に関しては、口を噤もうと決心したのでご・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・長い間の不思議な心の迷いをクララは種々に解きわずらっていたが、それがその時始めて解かれたのだ。クララはフランシスの明察を何んと感謝していいのか、どう詫びねばならぬかを知らなかった。狂気のような自分の泣き声ばかりがクララの耳にやや暫らくいたま・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・二 人の世のすべての迷いはこの二つの道がさせる業である、人は一生のうちにいつかこのことに気がついて、驚いてその道を一つにすべき術を考えた。哲学者と言うな、すべての人がそのことを考えたのだ。みずから得たとして他を笑った喜劇も、・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・もう毛のさきほども自分に迷いはない。命の総てをおとよさんに任せる。 こういう場合に意志の交換だけで、日を送っていられるくらいならば、交換したことばは偽りに相違ない。抑えられた火が再び燃えたった時は、勢い前に倍するのが常だ。 そのきさ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。 ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、「………」誰れだ? と、いつもの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
あてもなくさ迷い歩くというが、やはり、真実を求めているのだ。また美を求めているのだ。なぜなれば、人間は、この憧憬がなければ、生きていられないからだ。 あわれなる流浪者よ、いったい、どこに、その真実が見出され、美が見出されるというの・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・「あなたが、路をお迷いなされたことは、私にとってこのうえないしあわせでした。私は、まだ世の中のことを知りません。どうか、私たち仲間が、どんな生活をしているか、私に聞かせてください。」と、花は、ちょうに頼んだのであります。 可憐なとこ・・・ 小川未明 「小さな赤い花」
・・・ しかし、空拳と無芸では更に成すべき術もなく、寒山日暮れてなお遠く、徒らに五里霧中に迷い尽した挙句、実姉が大邱に在るを倖い、これを訪ね身の振り方を相談した途端に、姉の亭主に、三百円の無心をされた。姉夫婦も貧乏のどん底だった。「百円は・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・そして、迷いもしなかった。現実を見る眼と、それを書く手の間にはつねに矛盾はなかったのだ。 ところが、ふとそれが出来なくなってしまったのだ。おかしいと新吉は首をひねった。落ちというのは、いわば将棋の詰手のようなものであろう。どんな詰将棋に・・・ 織田作之助 「郷愁」
出典:青空文庫