・・・が、勿論新蔵と堅い約束の出来ていたお敏は、その晩にも逃げ帰る心算だったそうですが、向うも用心していたのでしょう。度々入口の格子戸を窺っても、必ず外に一匹の蛇が大きなとぐろを巻いているので、到底一足も踏み出す勇気は、起らなかったと云う事です。・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・大抵は萱を分けて、ざわざわざわと出で来り、樵夫が驚いて逃げ帰るくらいのものなり。中には握飯を貰いて、ニタニタと打喜び、材木を負うて麓近くまで運び出すなどいうがあり。だらしのなき脊高にあらずや。そのかわり、遠野の里の彼のごとく、婦にこだわるも・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・人民と、人民が制服を着せられた姿である兵士たちに、滅私奉公をあれほどたたき込んだのが真実なら、己れの命を惜しんで、上官である地位を利用して自分ばかりが逃げ帰ることは、人間としてこの上ない穢辱であること位は知ってよかったろう。 戦争は常に・・・ 宮本百合子 「逆立ちの公・私」
出典:青空文庫