・・・ 名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。 * ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・この世の生活をこの世らしゅう生きて通る事だけは、誰にも授けられているように、其方にも確に授けてあった。其方の心の奥にも、このあらゆる無意味な物事の混沌たる中へ関係の息を吹込む霊魂は据えてあった。この霊魂を寝かして置いて混沌たる物事を、生きた・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・けれどもこれが橋の下を通る舟の特色であると思うとそのおかしい処に感じの善い処がある。 橋を渡った。もうくたびれてしもうて観察するのがいやになった。この後は何処を通って往たか知らぬ。 ついでにことわって置くが、体を車の右へ片寄せて乗っ・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ぼくは船が横を通る間にだまってすっかり見てやろう。絵が上手だといいんだけれども僕は絵は描けないから覚えて行ってみんな話すのだ。風は寒いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔わない。ほかにも誰も酔ったものはない。 *い・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 白いサヤサヤと私が通ると左右に分れる音の聞える様な霧に包まれた静かな景色は、熱い頬や頭を快くひやして行く。 霞が深く掛った姿はまだはっきり覚えて居るほど新らしい時に見た事はないが秋霧の何とも云えない物静かな姿は霞の美くしさに劣るま・・・ 宮本百合子 「秋霧」
・・・例のマランダンがその戸口に立っていてかれの通るのを見るや笑いだした。なぜだろう。 かれはクリクトーのある百姓に話しかけると、話の半ばも聴かず、この百姓の胃のくぼみに酒が入っていたところで、かれに面と向けて『何だ大泥棒!』 そして・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・停留場までの道は狭い町家続きで、通る時に主人の挨拶をする店は大抵極まっている。そこは気を附けて通るのである。近所には木村に好意を表していて、挨拶などをするものと、冷澹で知らない顔をしているものとがある。敵対の感じを持っているものはないらしい・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ ここはいつもリンツマンの檀那の通る所である。リンツマンの檀那と云うのは鞣皮製造所の会計主任で、毎週土曜日には職人にやる給料を持ってここを通るのである。 この檀那に一本お見舞申して、金を捲き上げようと云う料簡で、ツァウォツキイは鉄道・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「通ることがありますか。あなたの主張は。」と梶は訊ねた。「なかなか通りませんね。それでも、船のことはとうとう勝って通りました。学者はみんな僕をやっつけるんだけれども、おれは、証明してみせて云うんですから、仕方がないでしょう。これから・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から洩れる、小さい燈の光を慕わしく思って見て通ることであろう。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫