・・・気候は海へはいるには涼し過ぎるのに違いなかった。けれども僕等は上総の海に、――と言うよりもむしろ暮れかかった夏に未練を持っていたのだった。 海には僕等の来た頃は勿論、きのうさえまだ七八人の男女は浪乗りなどを試みていた。しかしきょうは人か・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 自動車のいる所に来ると、お前たちの中熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、――一人はよちよちと歩いて、――一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心遣いから連れて来られなかった――母上を見送りに出て・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・高架鉄道を汽車がはためいて過ぎる。乗合馬車が通る。もう開けた店には客が這入る。 フレンチは車に乗った。締め切って、ほとんど真暗な家々の窓が後へ向いて走る。まだ寐ている人が沢山あるのである。朝毎の町のどさくさはあっても、工場の笛が鳴り、汽・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・心だのみの、それが仇で、人けがなさ過ぎると、虫も這わぬ。 心は轟く、脉は鳴る、酒の酔を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと四面の壁の息を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れな・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・養に資せられるべきは言うを待たない、西洋などから頻りと新らしき家庭遊技などを輸入するものは、国民品性の特色を備えた、在来の此茶の湯の遊技を閑却して居るは如何なる訳であろうか、余りに複雑で余りに理想が高過ぎるにも依るであろうけれど、今日上流社・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・その上に余り如才がなさ過ぎて、とかく一人で取持って切廻し過ぎるのでかえって人をテレさせて、「椿岳さんが来ると座が白ける」と度々人にいわれたもんだ。円転滑脱ぶりが余りに傍若無人に過ぎていた。海に千年、山に千年の老巧手だれの交際上手であったが、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・このとき、沖のはるかに、赤い筋の入った一そうの大きな汽船が、波を上げて通り過ぎるのが見えました。露子は、ふと、この汽船は遠くの遠くへいくのではないかと思って見ていますと、お姉さまも、またじっとその船をごらんになりました。「お姉さま、この・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・俺が行くと好いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を盗んで来い。」 すると、子供が泣きながら、こう言いました。「お爺さん。御免よ。若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・おれはぷっと噴きだし、折角こっちが勿体ぶっているのに、鉢巻とはあんまり軽々し過ぎる、だいいち帷子との釣合いがとれないではないかと、これはすぐやめさせた。 面白いほどはやり、婆さんははばかりに立つ暇もないとこぼしたので、儲けの分を増してや・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・心は緊張し過ぎるほど緊張していた。一つの曲目が終わって皆が拍手をするとき私は癖で大抵の場合じっとしているのだったが、この夜はことに強いられたように凝然としていた。するとどよめきに沸き返りまたすーっと収まってゆく場内の推移が、なにか一つの長い・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
出典:青空文庫