・・・肺の軋む音だと思っていた杳かな犬の遠吠え。――堯には夜番が見える。母の寝姿が見える。もっともっと陰鬱な心の底で彼はまた呟く。「おやすみなさい、お母さん」 三 堯は掃除をすました部屋の窓を明け放ち、籐の寝椅子に休ん・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・時々、犬が月におびえて遠吠えするくらいのものである。朝ばかばかしく早く跳ね起きてしまうものであるから、夜の八時すぎになると、自ら、うんざりして来る。目ざめて、動いていることに厭きて来る。眠りたいと思う。何かと考えているのが、いやになる。眠っ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ながい遠吠えやら、きゃんきゃんというせわしない悲鳴やら、苦痛に堪えかねたような大げさな唸り声やら、様様の鳴き声をまぜて騒ぎたてた。一時間くらい鳴きつづけたころ、父の黄村は、傍に寝ている三郎へ声をかけた。見て来い。三郎は先刻より頭をもたげ眼を・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 再び遠くから角笛の音、犬の遠吠えが聞えて来る。ニンフの群はもうどこへ行ったか影も見えない。 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・ すると、一秒ほどおくれて、その犬がきっと遠吠えをはじめた。サイレンの音よりちょっと高いだけで、終るのも、終りに近づいて音程の下ってゆく調子も、そっくりそのままに連れて、朝でも、夜でもサイレンの鳴る毎に吠え、人間はサイレンばかりをきくの・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・吠える声を聞くといつも遠吠えだ。死人の魂を動物の本能が感じて恐怖するという遠吠えだ。ワオーと、鼻にぬかして遠吠えする。 天気のいい、そして、或る私が最も神経的になることさえ起らない時なら、その斑犬を見るのも平気だ。困るのは或る一事の外天・・・ 宮本百合子 「吠える」
・・・はるかに狼が凄味の遠吠えを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧が朦朧と立ち込めてほんの特許に木下闇から照射の影を惜しそうに泄らし、そして山気は山颪の合方となッて意地わるく人の肌を噛んでいる。さみしさ凄さはこればかり・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫