・・・そう思って、声をかけようとしたが、遠慮した。――お徳の事だ。前には日本橋に居りましたくらいな事は、云っていないものじゃない。 すると、向うから声をかけた。「ずいぶんしばらくだわねえ。私がUにいる時分にお眼にかかった切りなんだから。あなた・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・ 遠慮会釈もなく迅風は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆のような闇が大河の如く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに甦った。 こうして仁右衛門夫婦は、何処からと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友達にも話し、妻にも話した、死刑の立会をするという、自慢の得意の情がまた萌す。なんだかこう、神聖なる刑罰・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・が、夜の裏木戸は小児心にも遠慮される。……かし本の紙ばかり、三日五日続けて見て立つと、その美しいお嬢さんが、他所から帰ったらしく、背へ来て、手をとって、荒れた寂しい庭を誘って、その祠の扉を開けて、燈明の影に、絵で知った鎧びつのような一具の中・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・うわさの恋や真の恋や、家の内ではさすがに多少の遠慮もあるが、外で働いてる時には遠慮も憚りもいらない。時には三丁と四丁の隔たりはあっても同じ田畝に、思いあっている人の姿を互いに遠くに見ながら働いている時など、よそ目にはわからぬ愉快に日を暮らし・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・「なアに、僕は遠慮がないから――」「まア、おはいりなさって下さい」「失敬します」と、僕は台どころの板敷きからあがって、大きな囲炉裡のそばへ坐った。 主人は尻はしょりで庭を掃除しているのが見えた。おかみさんは下女同様な風をして・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ その上に頗る多食家であって、親しい遠慮のない友達が来ると水菓子だの餅菓子だのと三種も四種も山盛りに積んだのを列べて、お客はそっちのけで片端からムシャムシャと間断なしに頬張りながら話をした。殊に蜜柑と樽柿が好物で、見る間に皮や種子を山の・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・と、小田は、遠慮したのでした。 彼は、この小学校を卒業したのだけれど、家が貧しくて、その上の学校へは、もとより上がることができなく、小使いに雇われたのでした。そして、夜は、この学校に泊まって、留守番をしていました。雪がたくさんに積もると・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・お光さん、ちっともお前やらねえじゃねえか、遠慮をしてねえでセッセと馬食ついてくれねえじゃいけねえ」と言いながら、手を叩いて女中を呼び、「おい姐さん、銚子の代りを……熱く頼むよ。それから間鴨をもう二人前、雑物を交ぜてね」 で、間もなくお誂・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・今や誰に遠慮もなく髪の毛を伸ばせる時が来たわけだと、私はこの自由を天に感謝した。 ところが、間もなく変なことになった。既に事変下で、新体制運動が行われていたある日の新聞を見ると、政府は国民の頭髪の型を新体制型と称する何種類かの型に限定し・・・ 織田作之助 「髪」
出典:青空文庫