・・・ 人間は苦悩に遭遇した時、「いつこの悩みから逃れられるのか?」と、恰もそれが永久に負わされた悩みでもあるかのように転々反側するけれど、ものには限度のあるもので、その後には必ず喜びが来る。まして人間は忘却と云うものを有っている。忘却は総て・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・ それより三世、即ち彼の祖父に至る間は相当の資産をもち、商を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・だから仏教には昔から合い難き師に合うとか、享け難き人身を享けてとか、百千万劫難遭遇の法を聴くとかいってこのかりそめならぬ縁の契機を重んじるのである。人と人との接触というものは軽くおろそかに扱えばそれまでの偶然事で深い気持などは起こるものでは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・彼等は、勝つことが出来ない強力な敵に遭遇したような緊張を覚えずにはいられなかった。 犬と人間との入り乱れた真剣な戦闘がしばらくつゞいた。銃声は、日本の兵士が持つ銃のとゞろきばかりでなく、もっとちがった別の銃声も、複雑にまじって断続した。・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分に近いものだけ濃厚になるのがたしかな事実である。して見るとこれもあまり大きなことは言えなくなる。同情する自分と同情される他者との矛盾が、死ぬか生きるか・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ この心なき忠告は、いったいどんな男がして呉れたものか、彼にもいまもって判らぬのだが、彼はこの屈辱をくさびとして、さまざまの不幸に遭遇しはじめた。ほかの新聞社もやっぱり「鶴」をほめては呉れなかったし、友人たちもまた、世評どおりに彼をあし・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・そんなゆがめられた歓喜の日をうかうかと送っているうちに、私は、いままでいちども経験したことのない大事件に遭遇したのである。 四 恋をしたのである。おそい初恋をしたのである。私のたわむれに書いた小説の題目が、いま・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・それで乗客の感覚の上では、恰度かなりな不連続線の通過に遭遇したと同等な効果になるわけである。しかし、乗客はみな、そんな面倒なことなどは考えないで「ああ涼しい」という。科学的な客観的な言葉を用いたがる現代人は「空気がちがって来た」というのであ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・に身辺に起こる自然現象に不思議を感ずる事は多いが、古来のいわゆる「怪異」なるものの存在を信ずることはできない。しかし昔からわれわれの祖先が多くの「怪異」に遭遇しそれを「目撃」して来たという人事的現象としての「事実」を否定するものではない。わ・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・ I氏の下側から見た鼻の二等辺三角形の頂角を目測しながら自分がつい数日前に遭遇したある小事件を思い出すのであった。 ある途上で、一人の若い背の高い西洋人の前に、四五人の比較的に背の低いしかし若くて立派な日本人が立ち並んで立ち話をして・・・ 寺田寅彦 「試験管」
出典:青空文庫