・・・眼を遮るものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらと瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。 七町も八町も歩いたと思・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 慌しく丁と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗を掻探ったが、遮るものは何にもない。 さては、暗の中に暗をかさねて目を塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝と今度は腕を差・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・、南は暖に、北は寒く、一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知っ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱れ、どくだみの香深く、薊が凄じく咲き、野茨の花の白いのも、時ならぬ黄昏の仄明るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢に響く波の音、吹当つる浜風は・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 若衆に取寄せさせた、調度を控えて、島の柳に纜った頃は、そうでもない、汀の人立を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑にはいたしますまい。略儀ながら不束な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直って真魚箸を構えた・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 自分はたちどまった……心細くなってきた、眼に遮る物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心な鴉が重そうに羽ばたきをして、烈しく風・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・と捲し立ててなおお浪の言わんとするを抑えつけて、「いいよ、そんなに云わなくったって分っているよ。おいらあ無暗に逃げ出したりなんぞしようと思ってやしないというのに。」と遮る。「おや、まだ強情に虚言をお吐きだよ。それほど分ってい・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・そして爪先下りのなだらかな道を下へ下へとおりて行く、ある人はどこまでも同じ高さの峰伝いに安易な心を抱いて同じ麓の景色を眺めながら、思いがけない懸崖や深淵が路を遮る事の可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅へ急いで行く。しかし少数のあ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 水田は低く平に、雲の動く空のはずれまで遮るものなくひろがっている。遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲の虞なからしむる放水路の関門であ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫