・・・ 昼過に高瀬が塾を出ようとすると、急に門の外で、「この野郎打殺してくれるぞ」 と呼ぶ声が起った。音吉の弟は人をめがけて大きな石を振揚げている。「あれで、冗談ですぜ」 と学士もそこへ来て言って、高瀬に笑って見せた。 荒・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・まあ、己はなんというけちな野郎だろう。」 熱い同情が老人の胸の底から涌き上がった。その体は忽ち小さくなって、頭がぐたりと前に垂れて、両肩がすぼんで、背中が曲がった。丁度水を打ち掛けられた犬のような姿である。そしてあわただしげに右の手をず・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ もしあなたたちが、その借金をいくらでも大谷さんから取って下さったら、私は、あなたたちに、その半分は差し上げます、と言いますと、記者たちも呆れた顔を致しまして、なんだ、大谷がそんなひでえ野郎とは思わなかった、こんどからはあいつと飲むのはごめ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・昼鳶の持逃野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振って人々を笑わせるかと思うと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、また何とかいって叱りつけ自分も可笑そうに笑っては例の啖唾を吐くのであった。 縁日の事からもう一人私の記憶に浮び出・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・けれども総体に「あの野郎」という心持ちのほうが勝っていた。そのあの野郎として重吉をながめると、宿をかえていつまでも知らせなかったり、さんざん人を待たせて、気の毒そうな顔もしなかったり、やっとはいってきたかと思うと、一面アルコールにいろどられ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・そして逆に、「この馬鹿野郎!」と罵る言葉が、不意に口をついて出て来るのである。しかもこの衝動は、避けがたく抑えることが出来ないのである。 この不思議な厭な病気ほど、僕を苦しめたものはない。僕は二十八歳の時に、初めてドストイェフスキイの小・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・此の犬野郎!」 私は叫びながら飛びついた。「待て」とその男は呻くように云って、私の両手を握った。私はその手を振り切って、奴の横っ面を殴った。だが私の手が奴の横っ面へ届かない先に私の耳がガーンと鳴った、私はヨロヨロした。「ヨシ、ご・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・昔は一箇の美人が枕頭に座して飯の給仕をしてくれても嬉しいだろうと思うたその美人が、今我が枕頭に座って居ったとすれば我はこれに酬いるに「馬鹿野郎」という肝癪の一言を以てその座を逐払うに止まるであろう。野心、気取り、虚飾、空威張、凡そこれらのも・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・「この野郎、きさまの電気のおかげで、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ。」一人が言いました。 ブドリはしずかに言いました。「倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。」「何この野・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ 生意気な納豆野郎!」 一太はそれを待っていたのだ。チョロリ、チョロリ、荷車の囲りを駈け廻って善どんに追っかけられた。大人と鬼ごっこするのが一太はどんなに好きで面白かったろう。むんずとした手で捕まりそうになると、一太は本当にはっとし、目・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫