・・・……ついでに金盥……気を利かして、気を利かして。」 この間に、いま何か話があったと見える。「さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。」「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 新京極に折れると、たてた戸の間から金盥を持って風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小店員、うどんの出前を運ぶ男、往来の真中で棒押しをしている若者などが、異様な盛り場の夜更けを見せている。昼間は雑閙のなかに埋れて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ たちまち車井の音が高く響いたと思うと、『お安、金盥を持って来てくれろ』という声はこの家の主人らしい。豊吉は物に襲われたように四辺をきょろきょろと見まわして、急いで煉塀の角を曲がった。四辺には人らしき者の影も見えない。『四郎だ四郎だ・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・彼家じゃア二三日前に買立の銅の大きな金盥をちょろりと盗られたそうだからねえ」「まアどうして」とお源は水を汲む手を一寸と休めて振り向いた。「井戸辺に出ていたのを、女中が屋後に干物に往ったぽっちりの間に盗られたのだとサ。矢張木戸が少しば・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・また金持はとかくに金が余って気の毒な運命に囚えられてるものだから、六朝仏印度仏ぐらいでは済度されない故、夏殷周の頃の大古物、妲己の金盥に狐の毛が三本着いているのだの、伊尹の使った料理鍋、禹の穿いたカナカンジキだのというようなものを素敵に高く・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ と連呼し、やがて、ジャンジャンジャンというまことに異様な物音が内から聞え、それは婆が金盥を打ち鳴らしているのだという事が後でわかりましたが、私は身の毛のよだつほどの恐怖におそわれ、屋根から飛び降りて逃げようとしたとたんに、女房たちの騒ぎを・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・朝起きて顔を洗う金盥の置き方から、夜寝る時の寝衣の袖の通し方まで、無意識な定型を繰返している吾人の眼は、如何に或る意味で憐れな融通のきかきぬものであるかという事を知るための、一つの面白い、しかも極めて簡単な実験は、頭を倒にして股間から見馴れ・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・適当な花瓶がなかったからしばらく金盥へ入れておいた。室咲きであるせいか、あのひばりの声を思わせるような強い香がなかった。まもなく宅から持って来た花瓶にそれをさして、室のすみの洗面台にのせた。同じ日に甥のNが西洋種の蘭の鉢を持って来てくれた。・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・そう言って道太が高い流しの前へ行くと、彼女は棚から銅の金盥を取りおろして、ぎいぎい水をあげはじめた。そして楊枝や粉をそこへ出してくれた。道太は楊枝をつかいながら、山水のような味のする水で口を漱いだ。「昨夜はお客は一組か」「え、一組、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・あれでも万事整頓していたら旦那の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮の薬缶で湯を沸かしたり、ブリッキの金盥で顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。「それでも主人さ。これが俺のうちだと思えば何とな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫