・・・倅の嫁の里の分家の次男の里でも、昔から世話になった主人の倅が持っている水車小屋へ、どうとかしたところが、その病院の会計の叔父の妹がどうとかしたから、見合わせてそのじいの倅の友だちの叔父の神田の猿楽町に錠前なおしの家へどうとかしたとか、なんと・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ 先生は隠居さんから受取った鍵で錠前をガチャガチャ言わせて、誰も留守居のない、暗い家の中へ高瀬を案内した。閉めてあった雨戸を繰ると、対岸の崖の上にある村落、耕地、その下を奔り流れる千曲川が青畳の上から望まれた。 高瀬は欄のところへ行・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「お前さんはケッセル町の錠前屋のロオレンツさんじゃあないか。」「うん。そうだ。こないだじゅうは工場で働いていたのだが、七週間この方、為事にありつかずにいるのだ。元は二人ずつの組にして使われたものだが、この頃はそうでなくなったからなあ。」・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それから一ばんしまいに、入口の門へも錠前を下しました。そして、それだけの鍵をみんな持って、ウイリイと一しょにお城を立ちました。 二人は長い長い道を歩いて、やっと海ばたへ着きました。船はすぐに帆を上げて、もと来た大海へ引きかえしました。王・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・その代り生徒に何かしら実用になる手工を必修させ、指物なり製本なり錠前なりとにかく物になるだけに仕込んでやりたいという考えである。これに対してモスコフスキーが、一体それは腕を仕込むのが主意か、それとも民衆一般との社会的連帯の感じを持たせるため・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・それは、そのころどこかからもらった高価な舶来ビスケットの箱が錠前付きのがんじょうなブリキ製であったが、その上面と四方の面とに実に美しい油絵が描かれていた。その絵の一つが英国の田舎の風景で、その中に乗客を満載した一台の郵便馬車が進行している。・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・わたくしは御免を蒙りまして、お家の戸閉だけいたしまして、錠前の処へはお寺から頂いて来たお水でも振り掛けて置きましょう。何にいたせわたくしはついぞあんな人間を見た事もございませんし、また人間があんな目付をいたしているはずがございません。主・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・女でも、ひろい室の真中に一列に正座させて、どこにも背中のもたせられないようにし、すこし居眠りしていると監房の大きな錠前をひどい音でガチャン! とたたきつけて、おどろかした。時間ぎめで、順ぐり用便させるとき、すこし手間をかけている男に、きくに・・・ 宮本百合子 「本郷の名物」
・・・家の扉の錠前は赤く錆つき、低い窓には蜘蛛が網を張りました。部屋の中には、唯一枚、大きな黒天鵞絨の垂幕が遺っているばかりです。然し、その垂幕には、此世でまたと見られそうもない程素晴らしい繍がどっしりとしてありました。 そよりともしない黒地・・・ 宮本百合子 「ようか月の晩」
・・・板戸に錠前をかけ、あるところでは鉄扉がおろされている。 広場の中心へ行くと、やっと、行列らしいものがあった。往来でもみかけたようなレイン・コートの一隊が広場をグルリと列で取り巻き、手に手におそろしく太いおんなじ形のステッキをついている。・・・ 宮本百合子 「ワルシャワのメーデー」
出典:青空文庫