・・・さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭に桶をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産らしい桜の枝を持っていた。「今、西の市で、績麻のみせを出している女なぞもそう・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・時には沈み切りに沈んだのかと思うほど長く現われて来ませんでした。若者も如何かすると水の上には見えなくなりました。そうかと思うと、ぽこんと跳ね上るように高く水の上に現われ出ました。何んだか曲泳ぎでもしているのではないかと思われるほどでした。そ・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そしてこの一秒時が無窮に長く思われて、これを見詰めているのが、何とも言えぬ苦しさであった。次の刹那には、足取り行儀好く、巡査が二人広間に這入って来て、それが戸の、左右に番人のように立ち留まった。 次に出たのが本人である。 一同の視線・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・犬は悲しげに長く吠えた。その声はさも希望のなさそうな、単調な声であった。その声を聞くものは、譬えば闇の夜が吐く溜息を聞くかと思った。その声を聞けば、何となく暖かい家が慕わしくなる。愛想のある女の胸が慕わしくなる。犬は吠え続けた。・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人は・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。 その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・暗い水の上を伝わって、長く尻声を引く。聞く耳のせいか溜らなく厭な声だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火がほとんど水にひッついて、水平線の上に浮いてるかのごとく、寂しい光を漏らしている。 何か人声が遠くに聞えるよと耳を立てて聞くと、助け舟・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・泳ぎに行って知っているが、長くたわんだ、綺麗な海岸線を洗う波の音だ。さッと言っては押し寄せ、すッと静かに引きさがる浪の音が遠く聴えた。それに耳を傾けると、そのさッと言ってしばらく聴えなくなる間に、僕は何だかたましいを奪われて行くような気がし・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もし長くその椅子に坐していたら必ず新生面を拓く種々の胸算があったろうと思う。正倉院の門戸を解放して民間篤志家の拝観を許されるようになったのもまた鴎外の尽力であった。この貴重な秘庫を民間奇特者に解放した一事だけでも鴎外のような学術的芸術的理解・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 私は時が長くなりましたからもうしまいにいたしますが、常に私の生涯に深い感覚を与える一つの言葉を皆様の前に繰り返したい。ことにわれわれのなかに一人アメリカのマサチューセッツ州マウント・ホリヨーク・セミナリーという学校へ行って卒業してきた・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫