・・・「やちもないことをしてくさって、虹吉の阿呆めが!」 母は兄の前では一言の文句もよく言わずに、かげで息子の不品行を責めた。僕は、「早よ、ほかで嫁を貰うてやらんせんにゃ。」 母と、母の姉にあたる伯母が来あわしている椽側で云った。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 仕事が始る時、従兄がやって来て、「阿呆が、もっと気を付けい!」と云った。 併し、京一は、それを聞いていなかった。彼は、何故か自分一人が馬鹿にせられているようで淋しく悲しかった。「もうこんなとこに居りゃせん!」 彼は、涙・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・とは云え、勤務は阿呆らしくって、真面目にやる気になれなかった。帰還した同年兵は、今頃、敦賀へついているだろうか。すぐ満期になって家へ帰れるのだ! 二人はそんなことばかりを思っていた。シベリアへ来るため、乗船した前夜、敦賀で一泊した。その晩の・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・しかし思いのほかに目鼻立の整った、そして怜悧だか気象が好いか何かは分らないが、ただ阿呆げてはいない、狡いか善良かどうかは分らないが、ただ無茶ではない、ということだけは読取れた。 少し気の毒なような感じがせぬではなかったが、これが少年でな・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。 何かしなければならぬ。 釣。 将棋。 そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのだかどうだか、それは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・わが子ながら、ほとんど阿呆の感じでした。 その池のはたのベンチにいつまでいたって、何のらちのあく事では無し、私はまた坊やを背負って、ぶらぶら吉祥寺の駅のほうへ引返し、にぎやかな露店街を見て廻って、それから、駅で中野行きの切符を買い、何の・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・すすめられるままに、ただ阿呆のように、しっかりビイルを飲んで、そうして長押の写真を見て、無礼極まる質問を発して、そうして意気揚々と引上げて来た私の日本一の間抜けた姿を思い、頬が赤くなり、耳が赤くなり、胃腑まで赤くなるような気持であった。・・・ 太宰治 「佳日」
・・・そうして、そんな仕事をしている自分の姿を、得意げに、何時間でも見せていたい様子で、男爵もまた、その気持ちを察し、なんの興味もない撮影の模様を、阿呆みたいにぽかんとつっ立って拝見しているのである。男爵の眼前には、くだらないことが展開していた。・・・ 太宰治 「花燭」
・・・役人は、ますますさかんに、れいのいやらしい笑いを発して、厚顔無恥の阿呆らしい一般概論をクソていねいに繰りかえすばかり。民衆のひとりは、とうとう泣き声になって、役人につめ寄る。 寝床の中でそれを聞き、とうとう私も逆上した。もし私が、あの場・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
出典:青空文庫