・・・それをすぐオーケーとばかりに承諾しては田代公吉が阿呆になるからそれは断然拒絶して夕刊娘美代子の前に男を上げさせる。この夕刊売りの娘を後に最後の瞬間において靴磨きのために最有利な証人として出現させるために序幕からその糸口をこしらえておかなけれ・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・かかる人を賢しといわば、高き台に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助にて、よそながら窺う世な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「白か赤か、赤か白か」と続け様に叫ぶ。鞍壺に延び上ったるシーワルドは体をおろすと等しく馬を向け直して一散に城門の方へ飛ばす。「続け、続け」とウィリアムを呼ぶ。「赤か、白か」とウィリアムは叫ぶ。「阿呆、丘へ飛ばすより壕の中へ飛ばせ」とシーワル・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・「みなみのそらの、赤眼のさそり 毒ある鉤と 大きなはさみを 知らない者は 阿呆鳥。」 そこで大烏が怒って云いました。「蠍星です。畜生。阿呆鳥だなんて人をあてつけてやがる。見ろ。ここへ来たらその赤眼を抜いてやるぞ。・・・ 宮沢賢治 「双子の星」
・・・ ほんとに『阿呆らしい』ってのは、こう云う事を云うじゃありませんか。 ああ、ああ。 お金は、黒ずんだ歯茎をむき出して、怒鳴り散らした。 栄蔵にも、お君にも、「今月分」として十円だけもらって来たのがどれだけ馬鹿なのか、間抜・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・「女ほど詰らんもんおへんな、ちょっとええ目させて貰たと思たら十九年の辛棒や。阿呆らし! なんぼ銭くれはってももう御免どす」 然し、それは嘘なのであった。そんな作り話をきかされる柄に見えるかと、彼等は宿へかえる路も笑ったのであった。・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ただ、この小説に出て来るような阿呆は、実際にゃいねえね。バカバカしい話だ!……」「どういう塩梅に、共同耕作が組織されたか――何も分らん。どんな工合に発達したか――こいつも分らねえ。トラクター以外にゃ何も経営的なもんが説明されてねえんだ」・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ お石は、唇を噛んでジリジリしながら、どう考えても馬鹿の阿呆に違いない自分の亭主を呪った。 家中の責任を皆背負って立っている自分、この自分がいるばかりにようよう哀れな亭主も子供達も生きていられるのだという自信に、少なからず誇りを感じ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・「もう好えやろが。」「云うてくれ、云うてくれ。」「云うてくれって、お前宝船やないか、ゆっくりそこへ坐っとりゃ好えのじゃ。」「こらこら、俺も行くぞ。」「阿呆ぬかせ! 伯母やん、此奴どっこも行くとこが無うて困っとるのやが、ち・・・ 横光利一 「南北」
・・・それを書かせる機縁となったのは、芥川の『或阿呆の一生』のなかにある次の一句である。「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出逢ったことはなかった」。藤村はそれを取り上げて、「私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫