・・・ ねむられないのです。隣室の夫も、ねむられない様子で、溜息が聞え、私も思わず溜息をつき、また、あのおさんの、 女房のふところには 鬼が棲むか あああ 蛇が棲むか とかいう嘆きの歌が思い出され、夫が起きて私の部屋へやっ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・中畑さんは私を隣室へ連れて行った。そこには、北さんもいた。 私を坐らせて、それからお二人も私の前にきちんと坐って、そろってお辞儀をして、「今日は、おめでとうございます。」と言った。それから中畑さんが、「きょうの料理は、まずしい料・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・その時、ふと、隣室の母を見ると、母は口を力無くあけて肩で二つ三つ荒い息をして、そうして、痩せた片手を蠅でも追い払うように、ひょいと空に泳がせた。変だな? と思った。私は立って、母のベッドの傍へ行った。他のひとたちも心配そうな顔をして、そっと・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ 隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、「知ってるよ。知ってるよ。」 と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・ 家の者達にも、めっきり優しくなっている。隣室で子供が泣いても、知らぬ振りをしていたものだが、このごろは、立って隣室へ行き不器用に抱き上げて軽くゆすぶったりなどする事がある。子供の寝顔を、忘れないように、こっそり見つめている夜もある。見・・・ 太宰治 「新郎」
・・・私は寝ころんで新聞をひろげて見ていたが、どうにも、いまいましいので、隣室で縫物をしている家の者に聞えるようにわざと大きい声で言ってみた。「ひでえ野郎だ。」「なんですか。」家の者はつられた。「今夜は、お帰りが早いようですね。」「早いさ・・・ 太宰治 「誰」
・・・ とっさに、うまい嘘も思いつかず、私は隣室の家の者には一言も、何も言わず、二重廻しを羽織って、それから机の引出しを掻きまわし、お金はあまり無かったので、けさ雑誌社から送られて来たばかりの小為替を三枚、その封筒のまま二重廻しのポケットにね・・・ 太宰治 「父」
・・・なんでも昔寄宿舎で浜口雄幸、溝淵進馬、大原貞馬という三人の土佐人と同室だか隣室だかに居たことがある、そのときこの三人が途方もない大きな声で一晩中議論ばかりしてうるさくて困ったというのである。 この三人の方々に聞いてみたら何かしら学生時代・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・それを避けるために隣室で立ち聞く人を映したりして単調を防ぐ必要が起こって来る。 それよりも困ったことには国語の相違ということが有声映画の国際的普遍性を妨げる。無声映画を「聞」いていた観客は、有声になったために聾になってしまった。 こ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・この無意識なそうして表面平静な挙動の奥にあばれている心のあらしを、隣室から響くピアノの単純なようで込み入った抑揚が細かに描いて行く。そうして食卓の上に刻まれた彼女自身の名前を見いだした最後の心機の転回に導かれるまでこのピアノ曲はあるいは強く・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫