・・・赤は太十の手を離れるとすぐにさっきの処へ駈けていって棄てられた煎餅を噛った。太十はすぐに喚んだ。赤は長い舌で鼻を甞めながら駈けて来て前足を太十の体へ挂けて攀じのぼるようにしていつものように甘えた。夜になって文造が番小屋へ来た。それは犬殺しが・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・私がもし日本を離れる事があるとすれば、永久に離れる。けっして二度とは帰って来ないと云われた。 先生はこういう風にそれほど故郷を慕う様子もなく、あながち日本を嫌う気色もなく、自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわ・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・而してそれは単に推論的に、行為的直観的たる経験を離れるかぎり、何らの客観性をも有つこともできない。哲学は空想に過ぎない。哲学は対象なき対象の学、自証の学でなければならない。そこに科学と異なった哲学そのものの存在理由があるのである。科学という・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・考えて見ると今まで木の影を離れる事が出来ぬので同じ小道を往たり来たりして居る、まるで狐に化されたようであったという事が分った。今は思いきって森を離れて水辺に行く事にした。 海のような広い川の川口に近き処を描き出した。見た事はないが揚子江・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・泣いて悔やんで悲しんで、ついには年老る、病気になる、あらんかぎりの難儀をして、それで死んだら、もうこの様な悪鳥の身を離れるかとならば、仲々そうは参らぬぞや。身に染み込んだ罪業から、又梟に生れるじゃ。斯の如くにして百生、二百生、乃至劫をも亘る・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ いつ呼んでも来て呉れる心安い、明けっぱなしで居られる友達の有難味を、離れるとしみじみと感じる。 彼の人が来れば仕事の有る時は、一人放って置いて仕事をし、暇な時は寄っかかりっこをしながら他愛もない事を云って一日位座り込んで居る。・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・故郷を離れるも、遠い旅をするも母と一しょにすることだと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、二人はどうしていいかわからない。ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれだけ変らせるか、そのほどさえ弁えられぬのである・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・彼はこうして時々妻の傍から離れると外を歩き、また、妻の顔を新しく見に帰った。見る度に妻の顔は、明確なテンポをとって段階を描きながら、克明に死線の方へ近寄っていた。――山上の煉瓦の中から、不意に一群の看護婦たちが崩れ出した。「さようなら。・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・徳蔵おじはモウ年が寄って、故郷を離れる事が出来ないので、七年という実に面白い気楽な生涯をそこで送り、極おだやかに往生を遂る時に、僕をよんで、これからは兼て望の通り、船乗りになっても好といいました。僕は望が叶たんだから、嬉しいことは嬉しいけれ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そこでは理論は象徴と離れることができない。本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。体得した真理は直ちに肉体の上に強い力と権威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが融然として一つである。 千数百年以前にわが国・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫