・・・その最も甚しい時に、自分は悪い癖で、女だてらに、少しガサツなところの有る性分か知らぬが、ツイ荒い物言いもするが、夫はいよいよ怒るとなると、勘高い声で人の胸にささるような口をきくのも止めてしまって、黙って何も言わなくなり、こちらに対って眼は開・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・己が満足を感じ、幸福を感じて死にたいものと思う、而して其生に於ても、死に於ても、自己の分相応の善良な感化・影響を社会に与えて置きたいものだと思う、是れ大小の差こそあれ、其人々の心がけ次第で、決して為し難いことではないのである。 不幸短命・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・すると、直ぐ家へやって来てこんなに大衆的にやられている時に、遺族のものたちをバラ/\にして置いては悪いと云うので、即刻何処かの家を借りて、皆が集まり、お茶でも飲みながらお互いに元気をつけ合ったり、親密な気持を取り交わしたり、これからの連絡や・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・れを聞いてアラ姉さんとお定まりのように打ち消す小春よりも俊雄はぽッと顔赧らめ男らしくなき薄紅葉とかようの場合に小説家が紅葉の恩沢に浴するそれ幾ばく、着たる糸織りの襟を内々直したる初心さ小春俊雄は語呂が悪い蜆川の御厄介にはならぬことだと同伴の・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・七「なに、これで沢山だ、悪いと云えば帰って来る」 と無慾の人だから少しも構いませんで、番町の石川という御旗下の邸へ往くと、お客来で、七兵衞は常々御贔屓だから、殿「直にこれへ……金田氏貴公も予て此の七兵衞は御存じだろう、不断はまる・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」 それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「私のいうことをお聞きなさい。悪いことは言いません。」 こう言ってしきりにとめましたが、ウイリイはほしくて/\たまらないものですから、馬のいうことを聞かないで、とうとう飛び下りてひろいました。すると、その一本だけでなく、ついでに前の・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・お前さんの意地の悪いのも、手負いの意地の悪いのと同じ事だわ。わたしはお前さんを憎んでやろう憎んでやろうと思うのだけれど、どうも憎むことは出来ないわ。兎に角お前さんはちびのアメリイちゃんだわ。あの人との関係なんぞも、実はどうでも好いわ。それが・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ 昨年、九月、甲州の御坂峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰る・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力をもって迫ってきた。 高粱の絶えたところに来た。忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫