・・・御気分でもお悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」 おれは身を旋らしてその男を見た。おれの前に立っているのは、肥満した、赤い顔の独逸人である。こないだ電車から飛び下りておれのわざと忘れて置いた包みを持って来てくれて、・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・それにしても彼が幼年時代から全盛時代の今日までに、盲目的な不正当なショーヴィニズムから受けた迫害が如何に彼の思想に影響しているかは、あるいは彼自身にも判断し難い機微な問題であろう。 桑木博士と対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「だが会社の方へ悪いようだったら」「それは叔父さん、いいんです」 私は支度を急がせた。 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったとこ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・しかし、それがどうして悪いのだろう? 何でこんなにはずかしいのだろう? そしてやっぱり、若い女が前の道を通ると、三吉はいち早く気がついて、家のなかにとびこんだ。「でもまァ、これでお前がひしゃくをつくれば、日に二円にはなる。たきぎはでける・・・ 徳永直 「白い道」
・・・気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵にあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・蜀黍の垣根の側に手拭を頬かぶりにした容子の悪い男がのっそりと立って居る。それは犬殺しで帯へ挿した棍棒を今抜こうとする瞬間であった。人なつこい犬は投げられた煎餅に尾を振りながら犬殺しの足もとに近づいて居たのである。犬殺しは太十の姿を見て一足す・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なればかく果敢なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・特に数学に入るか哲学に入るかは、私には決し難い問題であった。尊敬していた或先生からは、数学に入るように勧められた。哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である、そういう能力があるか否かは分らないといわれるのである。理においてはいか・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物ででもあるかのように、ジクジクと汗が滲み出したが、何となくどこか寒いような気持があった。それに黴の臭いの外に、胸の悪くなる特殊の臭気が、間歇的に鼻を衝いた。その臭気には靄のように影があるように思われた。 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・あまりいうと、女房に悪いから結論は出さないでおこう。 火野葦平 「ゲテ魚好き」
出典:青空文庫