・・・自己の中に、アルプスの嶮にまさる難所があって、それを征服するのに懸命です。僕たちは、それを為しとげた人を個人英雄という言葉で呼んで、ナポレオンよりも尊敬して居ります。」 来た。待っていたものが来た。新しい、全く新しい次のジェネレーション・・・ 太宰治 「花燭」
・・・燈台が高く明るい光を放っているのは、燈台みずからが誇っているのでは無くして、ここは難所ゆえ近づいてはいけませんという忠告の意味なのである。 私のところへも、二、三、学生がやって来るのである。私は、そのときにも、いまと同じ様な困惑を感じる・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・汽車を見に、弁当もちで出かける八つばかりの私と六つ、四つの弟たちは、よくこの難所で小さい靴を霜どけのぬかるみに吸いとられて泣いた。靴がぬげたア、と泣くのであった。すると、ついている大人がかかえ上げて片手に靴をもって、ひどいところを大股にこし・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳の上に涙のこぼれるのも知らなかった。 長十郎はまだ弱輩で何一つきわ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界にさえ、親不知子不知の難所がある。削り立てたような巌石の裾には荒浪が打ち寄せる。旅人は横穴にはいって、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫