・・・ とその眼が非常に驚いたように物を言った。おさだは悲鳴を揚げないばかりにして自分の母親の方へ飛んで行った。何事かと部屋を出て見る直次の声もした。おげんは意外な結果に呆れて、皆なの居るところへ急いで行って見た。そこには母親に取縋って泣顔を・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・それが有形無形の自分の存在に非常の危険を持ち来たす。あるいは百年千年の後には、その方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次の将来における自己の生というものが威嚇される。単身の場合はまだよいが、同じ自己でも、妻と拡がり・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・も大てい一ぱい避難者が来て火事場におとらずごたごたする中で、一日二日の夜は、ばく弾をもった或暴徒がおそって来るとか、どこどこの囚人が何千人にげこんで来たというような、根もない流言によって、一部の人々は非常におびえさわぎました。むろん電灯もつ・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・あの時、私は床屋にいて散髪の最中であったのだが、知らせの花火の音を聞いているうちに我慢出来なくなり、非常に困ったのである。嫂も、あの時、針仕事をしていたのだそうであるが、花火の音を聞いたら、針仕事を続けることが出来なくなって、困ってしまった・・・ 太宰治 「一燈」
・・・ ポルジイは非常な決心と抑えた怒とを以て、書きものに従事している。夕食にはいつも外へ出るのだが、今日は従卒に内へ持って来させた。食事の時は、赤葡萄酒を大ぶ飲んで、しまいにコニャックを一杯飲んだ。 翌日まだ書いている。前日より一層劇し・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 病気はほんとうに治ったのでないから、息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、顳がはげしい脈を打つ。なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・水上警察がそれを見付けて、すぐに非常号音を鳴らします。すぐに電話で潜水夫を呼び寄せます。無論同時に秘密警察署へも報告をいたしまして、私立探偵事務所二箇所へ知らせましたそうで。」「なるほど。シエロック・ホルムス先生に知らせたのだね。」・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ すると林は、それだけだが、非常にはっきりと、顔をあげて言ったのだった。私はその瞬間、一ぺんに身体があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。 二 林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・井戸はこれこそ私が忘れようとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いそうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫