・・・の前につむじ風に面するたじろぎを感じた。のみならず窮状を訴えた後、恩恵を断るのは卑怯である。義理人情は蹂躙しても好い。卑怯者になるだけは避けなければならぬ。しかし金を借りることは、――少くとも金を借りたが最後、二十八日の月給日まで返されない・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白い直線を迸らせる。あれ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 鴎外の花園町の家の傍に私の知人が住んでいて、自分の書斎と相面する鴎外の書斎の裏窓に射す燈火の消えるまで競争して勉強するツモリで毎晩夜を更かした。が、どうしてもそれまで起きていられないので燈火の消える時刻を突留める事が出来なかった。或る・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・地上で人体には感じない程度の風でも巻き煙草に点火したのを頭上にかざしてみれば流向がわかる、その程度の風にとんぼは敏感に反応して常に頭を風に面するような態度を取るのである。 もっとも、地上数メートルの間では風速は地面から上へと急激に増すか・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・ こういう事を全く考えずに、ただ物理学教科書のみによって物理学を学んでいれば事柄は至極簡単で、太平無事であるが、一と度書物以外に踏みだして実験をするという事になり、始めてありのままの自然に面するとなると、誠に厄介な事になって来る。若干の・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・然し当時に在っては、不忍池の根津から本郷に面するあたりは殊にさびしく、通行の人も途絶えがちであった。ここに雁の叙景文を摘録すれば、「其頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立つてゐる汀まで、一面に葦が茂つてゐた。其葦の枯葉が池の中心に向つて次第・・・ 永井荷風 「上野」
・・・解決するためにも、日本の封建性と既成政党の腐敗とに対して、精力を傾けて闘わなければならないという教訓に面することとなったのである。 各婦人代議士たちが、公約履行の責任を明らかにするためには、自党の封建的な性格と組合ってそれを打破してゆか・・・ 宮本百合子 「一票の教訓」
・・・だが、そのように効果的に描き出された成功よりも更に深く横わる文学の問題、一箇の芸術家がこの人生にいかに面するかの問題は作者火野葦平氏がその効果と、優者の襟度としてのそのあたたかさを、自身に向ってどう見ているかというところにこそかかっている。・・・ 宮本百合子 「生産文学の問題」
・・・そうして初めてほんとうに自然に面することもできるだろう。五 自然をただ醜悪に観察して喜んでいた作家たちが、近ごろ何となく認識論的な、あるいは倫理学的な思想を、その作品中に混ずるに至ったことは、新しい時代が彼らに及ぼした影響と・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫