・・・如来が彼の面前へ姿を現したのは不可思議である。が、あるいは一刻も早く祇園精舎へ帰るためにぬけ道か何かしたのかも知れない。彼は今度も咄嗟の間に如来の金身に近づかずにすんだ。それだけはせめてもの仕合せである。けれども尼提はこう思った時、また如来・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・―― しかも場所は、面前彼処に望む、神田明神の春の夜の境内であった。「ああ……もう一呼吸で、剃刀で、……」 と、今視めても身の毛が悚立つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈を取った可恐い面のようで、家々の棟は、瓦の牙を噛み、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・いろいろうち解けた話もしていれば、また二人一緒になって、僕の悪口――妻のは鋭いが、吉弥のは弱い――を、僕の面前で言っていた。「長くここへ来ているの?」「いいえ、去年の九月に」「はやるの?」「ええ、どこででもきイちゃんきイちゃ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・私一人だけが若い娘たちの面前で、飯事のようにお櫃を前にして赧くなっているのだ。クスクスという笑い声もきこえた。Kはさすがに笑いはしなかったが、うちいややわと顔をしかめている。しかし、私は大いに勇を鼓してお櫃から御飯をよそって食べた。何たるこ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。「朝に道を聞かば夕に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶わん位なら今から百年生きていても・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 日蓮はこの論旨を、いちいち諸経を引いて論証しつつ、清澄山の南面堂で、師僧、地頭、両親、法友ならびに大衆の面前で憶するところなく闡説し、「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊。既成の諸宗はことごとく堕地獄の因縁である」と宣言した。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いているのである。書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハ・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・おととしの秋、社員全部のピクニックの日、ふだん好きな酒も呑まず、青い顔をして居りましたが、すすきの穂を口にくわえて、同僚の面前にのっそり立ちふさがり薄目つかって相手の顔から、胸、胸から脚、脚から靴、なめまわすように見あげ、見おろす。帰途、夕・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ポチは、れいによって上品ぶった態度を示し、何を騒いでいるのかね、とでも言いたげな蔑視をちらとその赤毛の犬にくれただけで、さっさとその面前を通過した。赤毛は、卑劣である。無法にもポチの背後から、風のごとく襲いかかり、ポチの寒しげな睾丸をねらっ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・雑誌社の編輯員の面前で、泣いてしまった事もある。あまり執拗くたのんで編輯員に呶鳴られた事もある。その頃は、私の原稿も、少しは金になる可能性があったのである。私が阿佐ヶ谷の病院や、経堂の病院に寝ている間に、友人達の奔走に依り、私の、あの紙袋の・・・ 太宰治 「東京八景」
出典:青空文庫