・・・ 母は彼の顔を見ると、頷くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒です。」 戸沢は手を洗っていた・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・すると叔母は大息をついて、しばらくは口もきけないのか、ただ何度となく恐ろしそうに頷くばかりでございましたが、やがてまた震え声で、『見たともの、見たともの、金色の爪ばかり閃かいた、一面にまっ黒な竜神じゃろが。』と答えるのでございます。して見ま・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・毎日々々行っちゃあ立っていたので、しまいにゃあ見知顔で私の顔を見て頷くようでしたっけ、でもそれじゃあない。 駒鳥はね、丈の高い、籠ん中を下から上へ飛んで、すがって、ひょいと逆に腹を見せて熟柿の落こちるようにぼたりとおりて、餌をつついて、・・・ 泉鏡花 「化鳥」
・・・三方に分れて彳む、三羽の烏、また打頷く。 もう可恐くなりまして、夢中で駈出しましたものですから、御前様に、つい――あの、そして……御前様は、いつ御旅行さきから。紳士 俺の旅行か。ふふん。(自ら嘲ける口吻汝たちは、俺が旅行・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ と考えるようにして、雑所はまた頷く。「手前、御存じの少々近視眼で。それへこう、霞が掛りました工合に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」「茱萸だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ ミリヤアドは夢見る顔なり。「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。」「切のうござんすか。」 頷く状なりき。「まだ可いんですよ。晩方になって寒くなると、あわれにおなんなさいます。それに熱が高くな・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ と言懸けて、頷く小宮山の顔を見て、てかてかとした天窓を掻き、「かような頭を致しまして、あてこともない、化物沙汰を申上げまするばかりか、譫言の薬にもなりませんというは、誠に早やもっての外でござりますが、自慢にも何にもなりません、生得・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・と術なげに頷く。「ふむ!」とばかり、男は酔いも何も醒め果ててしまったような顔をして、両手を組んで差し俯いたまま辞もない。 女もしばらくは言い出づる辞もなく、ただ愁そうに首をば垂れて、自分の膝の吹綿を弄っていたが、「ねえ金さん、お前さ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 僕のだまって頷くを見て、正作はさらに言葉をつぎ「だから僕は来春は東京へ出ようかと思っている」「東京へ?」と驚いて問い返した。「そうサ東京へ。旅費はもうできたが、彼地へ行って三月ばかりは食えるだけの金を持っていなければ困るだ・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの丸顔の男のひとが、少しも笑わずに私に向ってちょっと首肯くように会釈しました。 女のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。「こんな夜中にあがりまして」 とその女の・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫