・・・ひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点れたように灯影が映る時、八十年にも近かろう、皺びた翁の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々とした禰宜いでたちで、蚊脛を絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋を腰に提げ、燈心を一束、片手に油差・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・今ちょいと外面へ汝が立って出て行った背影をふと見りゃあ、暴れた生活をしているたア誰が眼にも見えてた繻子の帯、燧寸の箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日まで贅をやってた名残を見せて、今の今まで締めてたのが無くなっている背つきの淋しさ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 農夫などにはまだ燧袋で火を切り出しているのがあった。それが羨ましくなって真似をしたことがあったが、なかなか呼吸が六かしくて結局は両手の指を痛くするだけで十分に目的を達することが出来なかった。神棚の燈明をつけるために使う燧金には大きな木・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ その頃では神棚の燈明を点すのにマッチは汚れがあるというのでわざわざ燧で火を切り出し、先ずホクチに点火しておいてさらに附け木を燃やしその焔を燈心に移すのであった。燧の鉄と石の触れあう音、迸る火花、ホクチの燃えるかすかな囁き、附け木の燃え・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫