・・・そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交う蝙蝠のように、ひらひらと宙へ舞上るのです。私は葉巻を口へ啣えたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び廻って、一々行儀よくテエブルの上へピラミッ・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・は、ちょうど美しい蛾の飛び交うように、この繁華な東京の町々にも、絶え間なく姿を現しているのです。従ってこれから私が申上げようと思う話も、実はあなたが御想像になるほど、現実の世界と懸け離れた、徹頭徹尾あり得べからざる事件と云う次第ではありませ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……その中を、飛交うのは、琅ろうかんのような螽であった。 一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧いたように、刈田を沈め、鳰を浮かせたのは一昨日の夜の暴風雨の余残と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 屋根から屋根へ、――樹の梢から、二階三階が黒烟りに漾う上へ、飜々と千鳥に飛交う、真赤な猿の数を、行く行く幾度も見た。 足許には、人も車も倒れている。 とある十字街へ懸った時、横からひょこりと出て、斜に曲り角へ切れて行く、昨夜の・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。 日南の虹の姫たちである。 風情に見愡れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞らしつつ彳んでいるのであった。 四辺の長閑かさ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 戸外は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂った草が一筋に靡いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。 小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢。「お・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・影を沈めて六ツの花、巴に乱れ、卍と飛交う。 時にそよがした扇子を留めて、池を背後に肱掛窓に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱をついて、呆気に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背いて、胸越しに半面を・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・帰来した燕は、その麦の上を、青葉に腹をすらんばかりに低く飛び交うた。 測量をする技師の一と組は、巻尺と、赤と白のペンキを交互に塗ったボンデンや、測量機等を携えて、その麦畑の中を行き来した。巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のよ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・英語の通訳、ドイツ語の通訳が玄関を飛び交うサヴォイやグランド・ホテルは例外である。そこは、ソヴェトのただ狭い客間である。一九二八年代、どこのホテルの廊下ででも給仕男が大きな盆に茶や食物やをのっけ、汗だくで運んで行く恰好を見ることが出来た。む・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ 飛び交う数字と一種名状すべからざる緊張した熱意で飽和している空気の中をそっと、一人の婦人党員が舞台から日本女のところへきた。彼女は日本女の耳に口をつけて云った。 ――ようこそ! どこからです? ――日本から。 囁きかえした・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
出典:青空文庫