・・・ 何をしても不安でならぬ時には、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。真暗いので、どんなに助かるかわからない。誰も自分に注意しない。映画館の一隅に坐っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんな、いいところは無い。 私は、たいていの・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・そうして、全く百日振りくらいで防空服装を解いて寝て、まあこれで、ここ暫くは寒い夜中に子供たちを起して防空壕に飛び込むような事はしなくてすむと思うと、これからさきに於いてまだまだ様々の困難があるだろう事は予想せられてはいても、とにかくちょっと・・・ 太宰治 「薄明」
・・・有名な「古池やかわず飛び込む水の音」はもちろんであるが「灰汁桶のしずくやみけりきりぎりす」「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」「鉄砲の遠音に曇る卯月かな」等枚挙すれば限りはない。 すべての雑音はその発音体を暗示すると同時にまたその音の広が・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・驚いて川に飛び込む鰐は、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気を添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであるが・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・やっとわが家に飛び込むと同時にわっと泣きだして止め度もなく泣きつづけるのである。 小さな子が道でころんですねや手のひらをすりむいても、人が見ていないと容易には泣かない、だれかが見つけていたわるとはじめて泣きだす、それが母親などだと泣き方・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そこでたとえば前の例について言えば二分以下の間隔に飛び込む機会は三度に一度で、二分以上五分までの長い間隔にぶつかるほうは三度に二度の割合になる。実際は五分以上のものが勘定に加わるからおそらくこの割合は四度に三度ぐらいになる場合が多いだろうと・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・いろいろな塵が髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入って来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせると旅行と称する娯楽の嫌悪すべき序開である。先この急行列車の序開があった後には旅館の淋しさ。人が一ぱいいながら如何にもがらんとした広い・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・お富が海へ飛び込むところなぞは内容として、私には見るに堪えない。演り方が旨いとか下手いとか云う芸術上の鑑賞の余地がないくらい厭です。中村不折が隣りにいて、あのとき芸術上の批評を加えていたのを聞いて実に意外に思いました。ところが芝居の好きな人・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・しばらくしてまた飛び込む。水入の直径は一寸五分ぐらいに過ぎない。飛び込んだ時は尾も余り、頭も余り、背は無論余る。水に浸かるのは足と胸だけである。それでも文鳥は欣然として行水を使っている。 自分は急に易籠を取って来た。そうして文鳥をこの方・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・けれども命には易えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹の洋杖で、豚の鼻頭を打った。豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫