・・・単に食う食わぬの問題だったら、田舎へ帰って百姓するよ」 彼は斯う額をあげて、調子を強めて云った。「相変らず大きなことばかし云ってるな。併し貧乏は昔から君の附物じゃなかった?」「……そうだ」 二人は一時間余りも斯うした取止めの・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・杖にしている木の枝には赤裸に皮を剥がれた蝮が縛りつけられている。食うのだ。彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中の山葵沢へ出掛けて行く。楢や櫟を切り仆して椎茸のぼた木を作る。山葵や椎茸にはどんな水や空気や光線が必要か彼らよりよく知っているも・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・この冬に肺を病んでから薬一滴飲むことすらできず、土方にせよ、立ちん坊にせよ、それを休めばすぐ食うことができないのであった。「もうだめだ」と、十日ぐらい前から文公は思っていた。それでもかせげるだけはかせがなければならぬ。それできょうも朝五・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 空腹のとき、肉や刺身を食うと、それが直ちに、自分の血となり肉となるような感じがする。読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえって・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・、鯛の二段引きと申しまして、偶には一度にガブッと食べて釣竿を持って行くというようなこともありますけれども、それはむしろ稀有の例で、ケイズは大抵は一度釣竿の先へあたりを見せて、それからちょっとして本当に食うものでありまするから、竿先の動いた時・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ものを食うたびに薄く静脈のすいてみえているコメカミが、そこだけ生きているようにビクビク動いた。 彼は何か言おうとした。が、女がどうしてもピタリしなかった。龍介はその時女の首筋に何か見たように思った。虱だった。中から這いでてきたらしかった・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・社へも欠勤がちなり 絵にかける女を見ていたずらに心を動かすがごとしという遍昭が歌の生れ変り肱を落書きの墨の痕淋漓たる十露盤に突いて湯銭を貸本にかすり春水翁を地下に瞑せしむるのてあいは二言目には女で食うといえど女で食うは禽語楼のいわゆる実・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・けれども、これから新規に百姓生活にはいって行こうとする子には、寝る場所、物食う炉ばた、土を耕す農具の類からして求めてあてがわねばならなかった。 私の四畳半に置く机の抽斗の中には、太郎から来た手紙やはがきがしまってある。その中には、もう麦・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私は何より先に家で食うだけのものを作らねばなりません。でないと子どもらがひもじいって泣きます。あとの事、あとの事。まだ天国の事なんか考えずともよろしい。死ぬ前には生きるという事があるんだから」 で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。あのめしを噛む、その瞬間の感じのことだ。・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫