・・・皿を破り飯櫃を投ぐるは僕も亦能くせざる所なり。僕問う。「君はなぜ賄征伐をしない?」恒藤答う。「無用に器物を毀すのは悪いと思うから。――君はなぜしない?」僕答う。「しないのじゃない、出来ないのだ。」 今恒藤は京都帝国大学にシュタムラアとか・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・ 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。 潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 額の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人の二倍、やがて一尺、飯櫃形の天窓にチョン髷を載せた、身の丈というほどのものはない。頤から爪先の生えたのが、金ぴかの上下を着た処は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指で摘み・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・小脇に威勢よく引抱えた黒塗の飯櫃を、客の膝の前へストンと置くと、一歩すさったままで、突立って、熟と顔を瞰下すから、この時も吃驚した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのであ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・それは、鼻先きで飯櫃の蓋を突き落しかけていた家無し猫だった。寒さに、おしかが大儀がって追いに行かずにいると猫は再び蓋をごとごと動かした。「くそっ! 飯を喰いに来やがった!」おしかは云って追っかけた。猫は人が来るのを見ると、急に土間にとび・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・甲の浦沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃膳具を取り下ろすボーイの声八ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの外に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕忝しと一碗を傾くればはや厭になりぬ。寺田・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・米、味噌、茶わん、箸、飯櫃のような、われわれの生命の維持に必需な材料器具でもない。衣服や住居の成立に欠くべからざる品物ともちがう。それかといって棺桶や位牌のごとく生活の決算時の入用でもない。まずなければないでも生きて行くだけにはさしつかえは・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
出典:青空文庫