・・・書物は香炉の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせているのです。 婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろう・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そうしてその机の上へ、恭しそうに青磁の香炉や金襴の袋を並べ立てた。「その御親戚は御幾つですな?」 お蓮は男の年を答えた。「ははあ、まだ御若いな、御若い内はとかく間違いが起りたがる。手前のような老爺になっては、――」 玄象道人・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ かえりに区役所前の古道具屋で、青磁の香炉を一つ見つけて、いくらだと云ったら、色眼鏡をかけた亭主が開闢以来のふくれっ面をして、こちらは十円と云った。誰がそんなふくれっ面の香炉を買うものか。 それから広小路で、煙草と桃とを買ってうちへ・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・ 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香炉を持ち二人とも人力車に乗って行った。僕は時々居睡りをし、はっと思って目を醒ます拍子に危く香炉を落しそうにする。けれども谷中へは中々来ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・小さな青磁の香炉が煙も立てずにひっそりと、紫檀の台にのっているのも冬めかしい。 その前へ毛氈を二枚敷いて、床をかけるかわりにした。鮮やかな緋の色が、三味線の皮にも、ひく人の手にも、七宝に花菱の紋が抉ってある、華奢な桐の見台にも、あたたか・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・ 新所帯の仏壇とてもないので、仏の位牌は座敷の床の間へ飾って、白布をかけた小机の上に、蝋燭立てや香炉や花立てが供えられてある。お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 青磁の徳利にすすきと桔梗でも生けると実にさびしい秋の感覚がにじんだ。あまりにさびしすぎて困るかもしれない。 青磁の香炉に赤楽の香合のモンタージュもちょっと美しいものだと思う。秋の空を背景とした柿もみじを見るような感じがする。 ・・・ 寺田寅彦 「青磁のモンタージュ」
・・・それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。 一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。四月二十六日 午後T氏がわざわ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ青玉のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛が」と云うて長い袖が横に靡く、二人の男は共に床の方を見る。香炉に隣る白磁の瓶には蓮の花がさしてある。昨日の雨を・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ *ああ、われは献納の香炉。ささやかな火は絶えず立ちのぼる煙は やまねど行くかたを知らず 流れ行く途も弁えない。若しわが献げられた身を神がよみし給うなら寂漠の瞬間冲る香煙の頂を美し・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
出典:青空文庫