・・・息子が死んでも日本が克った方がいいか、日本が負けても、子息が無事でいた方が好いかなんてね。莫迦にしてやがると思って、私も忌々しいからムキになって怒るんだがね。」 悼ましい追憶に生きている爺さんの濁ったような目にはまだ興奮の色があった。・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・「何を……馬鹿な……逃げ出すなんて、そんな……アッ、ツ、ツ」 眼をむいて、女房を怒鳴りつけようとしたが、繃帯している殴られた頭部の傷が、ピリピリとひきつる。「だってさ、あんた……」 お初は、何かに追ったてられるように、「・・・ 徳永直 「眼」
・・・田崎が事の次第を聞付けて父に密告したので、お悦は可哀そうに、馬鹿をするにも程があるとて、厳しいお小言を頂戴した始末。私の乳母は母上と相談して、当らず触らず、出入りの魚屋「いろは」から犬を貰って飼い、猶時々は油揚をば、崖の熊笹の中へ捨てて置い・・・ 永井荷風 「狐」
・・・前口上を長々述べ立てた後でこのくらいの定義を御吹聴に及んだだけではあまり人を馬鹿にしているようですが、まあそこから定めてかからないと曖昧になるから、実はやむをえないのです。それで人間の活力と云うものが今申す通り時の流を沿うて発現しつつ開化を・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・そんな馬鹿馬鹿しい詰らぬことが、僕には強迫的の絶対命令だった。だが一番困ったのは、意識の反対衝動に駆られることだった。例えば町へ行こうとして家を出る時、反対の森の方へ行ってるのである。最も苦しいのは、これが友人との交際に於いて出る場合である・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私は感じたものだ。と同時に腹ん中の一切の道具が咽・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 吉里はわざとつんとして、「あんまり馬鹿におしなさんなよ。そりゃ昔のことですのさ」「そう諦めててくれりゃア、私も大助かりだ。あいたたた。太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極めら・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ところが真に受ける奴は一人も無い。馬鹿にして笑ってけつかる。それにいつでも生憎手近に巡査がいて、おれの頸を攫んで引っ立てて行きゃあがった。それから盲もやってみた。する事の無い職人の真似もしてみた。皆駄目だ。も一つ足なしになって尻でいざると云・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・愚にして目前の利害も知らず、人の己れを誹る可きを弁えず、我家人の禍となる可き事を知らず、漫に無辜の人を恨み怒り云々して其結果却て自身の不利たるを知らず、甚しきは子を育つるの法さえも知らざる程の大愚人大馬鹿者なるゆえに、結論は夫に従う可しと言・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・どうも莫迦々々しくてね。だから作をする時にゃ、精神は非常に緊張させるけれども、心には遊びがある。丁度、撃劒で丁々と撃合っては居るが、つまり真劒勝負じゃない、その心持と同なじ事だ。こんな風だから、他人は作をしていねば生活が無意味だというが、私・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
出典:青空文庫