・・・ 聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。「苦しくとも、少し我慢な・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・仕事が科学上の事であるだけにその成果は極めて鮮明であり、従ってそれを仕遂げた人の科学者としてのえらさもまたそれだけはっきりしている。 レニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさは必ずしも目前の成果のみで計量す・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・は没後四十六年の今日でも実に驚くべき鮮明さをもって随時に眼前に呼び出される。 この糸車というものが今では全く歴史的のものになってしまったようである。自分の子供などでもだれも実物を見たことはないらしい。産業博物館とでもいうものがあれば、そ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・そこで今度は声を立てないで口を自由に且つ充分に動かして読む真似をしてみると、その歌の口調のあらゆる特徴が驚くほど鮮明に頭に響いて来るのである。その際における口のまわりの運動の仕事の大部分が何に使われるかと思ってみると、それは各種の母音に適応・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・ それで私はすべての歌人に望むように宇都野さんの場合にも、どうかあまりに頭のいい自己批評から作歌の上に拘束を加えて、鮮明な自然の顔の輪郭が多少でも崩されるような事のないように祈りたいと思う。 もう一つ特に私が宇都野さんに望む所は、時・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
・・・しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。 端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・この黄味の強い赤い夕陽の光に照りつけられて、見渡す人家、堀割、石垣、凡ての物の側面は、その角度を鋭く鮮明にしてはいたが、しかし日本の空気の是非なさは遠近を区別すべき些少の濃淡をもつけないので、堀割の眺望はさながら旧式の芝居の平い書割としか思・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒するであろ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・旗幟の鮮明ならざること夥しい誰に聞いたって、そんな事が分るものか、さてもこの勝負男の方負とや見たりけん、審判官たる主人は仲裁乎として口を開いて曰く、日はきめんでもいずれそのうち私が自転車で御宅へ伺いましょう、そしていっしょに散歩でもしましょ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・だから長谷川君についても別段に鮮明な予想は持っていなかったのであるけれども、冥々のうちに、漠然とわが脳中に、長谷川君として迎えるあるものが存在していたと見えて、長谷川君という名を聞くや否やおやと思った。もっともその驚き方を解剖して見るとみん・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
出典:青空文庫