・・・しぶきにぬれてきらきら光っている鼻先を強くこすった。父親はだまって店を片づけた。 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。「もう店しまうべえ」 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・ キヌ子は、おくめんも無く、右の手のひらを田島の鼻先に突き出す。 田島は、うんざりしたように口をゆがめて、「君のする事なす事を見ていると、まったく、人生がはかなくなるよ。その手は、ひっこめてくれ。カラスミなんて、要らねえや。あれ・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・統一統一と目ざす鼻先に、謀叛の禁物は知れたことである。老人の※には、花火線香も爆烈弾の響がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一は美観である。小学校の運動会に小さな手足の揃うすら心地好いものである。「一方に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 踊子の栄子と大道具の頭の家族が住んでいた家は、商店の賑かにつづいた、いつも昼夜の別なくレコードの流行歌が騒々しく聞える千束町を真直に北へ行き、横町の端れに忽然吉原遊廓の家と灯とが鼻先に見えるあたりの路地裏にあった。或晩舞台で稽古に夜を・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開きにした爺さんの扇子がその鼻先へと差出されぬ中にばらばら逃げてしま・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・という調子でコップを僕の鼻先につきつけるものもあるようになった。 此等の人々は見るところ大抵僕よりは年が少い。僕は嫌悪の情に加えて好奇の念を禁じ得なかった。何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦いとも思っ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・そうして文造を見つけていきなりばらばらと駈けて来る。鼻先は土で汚れて居る。赤は恐ろしい威勢のいい犬であった。そうして十分に成長した。夜はよく足音を聞きつけて吠えた。昼間でも彼の目には胡乱なものは屹度吠えられた。次の秋のマチが来た。太十は例の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ららんは長い橋の袂を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思われる不揃な家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱か五抱もある大樹の幾本となく提灯の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・と吟じつつ行けば どつさりと山駕籠おろす野菊かな 石原に痩せて倒るゝ野菊かななどおのずから口に浮みてはや二子山鼻先に近し。谷に臨めるかたばかりの茶屋に腰掛くれば秋に枯れたる婆様の挨拶何となくものさびて面白く覚ゆ。見あぐれ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・犬は耳を立て此方を見たが、再び急がしそうに砂に鼻先をすりつけつつ波打ちぎわへ駆け去った。「あら、一寸こんな虫!」 陽子は、腹這いになっているふき子の目の下を覗いた。茶色の小さい蜘蛛に似た虫が、四本のこれも勿論小さい脚でぱッ、ぱッ、砂・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫