・・・「さっきお前さんが持って上った日和下駄、あれは桐だね。鼻緒は皮か何だね。」「皮でしょう。」「お見せ。」 寝床の裾の方の壁ぎわに置いてあったのを出して見せると、上さんはその鼻緒を触ってみて、「じゃ、これでも預かっとこう。お・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・の印がはいっており、鼻緒は蛇の皮であった。「釜の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そのかわりそんなきれを鼻緒に巻いた藁草履やわかめなどを置いて行ってくれる。ぐみややまももの枝なりをもらったこともあった。しかしその女の人はなによりも色濃い島の雰囲気を持って来た。僕たちはいつも強い好奇心で、その人の謙遜な身なりを嗅ぎ、その人・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
上 夏の初、月色街に満つる夜の十時ごろ、カラコロと鼻緒のゆるそうな吾妻下駄の音高く、芝琴平社の後のお濠ばたを十八ばかりの少女、赤坂の方から物案じそうに首をうなだれて来る。 薄闇い狭いぬけろじの車止・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・五十把ほど運んだ頃、プスリとその鼻緒を切ってしまった。跛を引きだした。細長い、長屋のように積重ねられて行く薪は、背丈けほどの高さになった。宗保は、後藤と西山とが下から両手で差上げる薪束を、その上から受け取った。彼が歩くと薪の塚は崩れそうにゆ・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・へ割歩を打ち大方出来たらしい噂の土地に立ったを小春お夏が早々と聞き込み不断は若女形で行く不破名古屋も這般のことたる国家問題に属すと異議なく連合策が行われ党派の色分けを言えば小春は赤お夏は萌黄の天鵞絨を鼻緒にしたる下駄の音荒々しく俊雄秋子が妻・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 丘を上る途中で、今朝買わせたばかりの下駄だのに、ぷすり前鼻緒が切れる。元が安物で脆弱いからであろうけれど、初やなぞに言わせると、何か厭なことがある前徴である。しかたがないから、片足袋ぬいで、半分跣足になる。 家へ帰ると、戸口から藤・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・「あのね、下駄の鼻緒を切らしちゃったの。お願いだから、すげてね。あたしその間、お客さんの部屋で待ってるわ。」 これはいけない、と私は枕元の雀焼きを掛蒲団の下にかくした。 お篠は部屋へはいって来て、私の枕元にきちんと坐り、何だか、・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。どの子もみんな、同じ様な顔をしています。年の頃さえ、はっきり見当がつきません。全部をおかみに捧げ切ると、人間は、顔の特徴も年恰好も綺麗に失ってしまうものかも知れません。東・・・ 太宰治 「東京だより」
・・・鶯色のリボン、繻珍の鼻緒、おろし立ての白足袋、それを見ると、もうその胸はなんとなくときめいて、そのくせどうのこうのと言うのでもないが、ただ嬉しく、そわそわして、その先へ追い越すのがなんだか惜しいような気がする様子である。男はこの女を既に見知・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫