・・・ ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」 恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「そら、Hさん、ありゃいつでしたかね、ながらみ取りの幽霊が出るって言ったのは?」「去年――いや、おととしの秋だ。」「ほんとうに出たの?」 HさんはMに答える前にもう笑い声を洩らしていた。「幽霊じゃなかったんです。しかし幽・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ともちゃん、おまえのその帯の間に、マドンナの胸の肉を少しばかり買う金がありゃしないか。とも子 なかったわ。私ずいぶん長い間なんにももらわないんですもの。瀬古 許しておくれ、ともちゃん、僕たちはおまえんちの貧乏もよく知ってるんだが…・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻をいじくりながら、「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」 五「あれさ、ちょいと、用がある、」 と女房は呼止める。 奴は遁げ足を向うのめりに、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・「待ちねえよ、赤い襦袢と、それじゃあ、お勘が家に居る年明だろう、ありゃお前もう三十くらいだ。」「いいえ、若いんです。」 七兵衛天窓を掻いて、「困らせるの、年月も分らず、日も分らず、さっぱり見当が着かねえが、」と頗る弱ったらし・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・何も惚れたのどうのってい事はありゃしない。ばか満め何をいうんだえ」 省作も一生懸命弁解はしたものの何となしきまりが悪い。のみならずあるいはおとよさんにそんな心があるのかとも思われるから、いよいよ顔がほてって胸が鳴ってきた。満蔵はそれ以上・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・だからありゃ深田の方が悪いのだ。何も省作に不徳義なこたない」 これは小手贔屓の言うところだ。「えいも悪いもない、やっぱり縁のないのだよ。省作だって、身上はよし、おつねさんは憎くなかったのだから、いたくないこともなかったろうし、向うで・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「お父さんの風ッたら、ありゃアしない」お袋がこう言うと、「おりゃアいつも無礼講で通っているから」と、おやじはにやりと赤い歯ぐきまで出して笑った。「どうか、おくずしなさい。御遠慮なく」と、僕はまず膝をくずした。「お父さんは」と・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・こんなところに糞をして、あんな犬ってありゃしない。」と大きな声で、さもこちらに聞こえるようにどなるのであります。 ほんとうにこのおばあさんは、自分かってなおばあさんでした。自分の家の猫が、近所の家へいって魚をくわえてきたのを見ても知・・・ 小川未明 「少年の日の悲哀」
・・・お互に命がありゃまた会わねえとも限らねえから、君もまあ達者でいておくんなせえ、ついちゃここに持合せが一両と少しばかりある、そのうち五十銭だけ君にあげるから……」と言いながら、腹巻を探った。 私はあまりに不意なので肝を潰した。「本当で・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫