・・・「哀れっぽい声を出したって駄目だよ。また君、金のことだろう?」「いいえ、金のことじゃありません。ただわたしの友だちに会わせたい女があるんですが、……」 その声はどうもKらしくなかった。のみならず誰か僕のことを心配してくれる人らし・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・「あら、だって電話じゃ、昨日より大変好さそうだったじゃありませんか? もっとも私は出なかったんですけれど、――誰? 今日電話をかけたのは。――洋ちゃん?」「いいえ、僕じゃない。神山さんじゃないか?」「さようでございます。」 ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「そうさ。それはそうさ……ポチだってどうしようかって考えていたんだい」「でもにいさんだってポチをぶったことがあってよ」「ぶちなんてしませんよだ」「いいえ、ぶってよほんとうに」「ぶったっていいやい……ぶったって」 ポチ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・「どうもあれがこの本の中にいないはずはないのだがな」 とやがておとうさんがおかあさんに仰有います。「いいえそんな所にはいません。またこの箪笥の引出しに隠れたなりで、いつの間にか寝込んだに違いありません。月の光が暗いのでちっとも見・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・「寒くなった、私、もう寝るわ。」「御寝なります、へい、唯今女中を寄越しまして、お枕頭もまた、」「いいえ、煙草は飲まない、お火なんか沢山。」「でも、その、」「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしない・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「なアに、かまいませんとも」「しかし、まだ奥さんにはお目にかかりませんけれど、おうちでは独りでご心配なさっておられますよ。それがお可哀そうで」「かかアは何も知ってませんや」「いいえ、先生のようなお気質では、つれ添う身になった・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「やはり、皇子が、わたしをやらないように引っ張っているのです。」と、お姫さまは歎かれました。「いいえ、お姫さま。これは、あまり金や銀をたくさん船に積み込んであるからであります。金や銀の重みを去れば、船は、軽くなって浮き上がるであ・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・「ははは、何だか馬鹿に年寄り染みたことを言うじゃねえか。お光さんなんざまだ女の盛りなんだもの、本当の面白いことはこれからさ」「いいえ、もうこんな年になっちゃだめだよ。そりゃ男はね、三十が四十でも気の持ちよう一つで、いつまでも若くてい・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・じっと前方を見凝めたまま相変らず固い口調で、「いいえ、上手と違いますわ。この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです。ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか」「いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静にして居なさい」 これは毎日おき・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫