・・・ 昆布岳の一角には夕方になるとまた一叢の雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。 仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして鉢巻の下ににじんだ汗を袖口で拭って・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・日本一の大原野の一角、木立の中の家疎に、幅広き街路に草生えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく鷹揚でゆったりして、道をゆくにも内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。秋風が朝から晩まで吹いて、見るもの聞くもの皆おおいなる田舎町・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ と、この一廓の、徽章とも言つべく、峰の簪にも似て、あたかも紅玉を鏤めて陽炎の箔を置いた状に真紅に咲静まったのは、一株の桃であった。 綺麗さも凄かった。すらすらと呼吸をする、その陽炎にものを言って、笑っているようである。 真赤な・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・特に桃の花を真先に挙げたのは、むかしこの一廓は桃の組といった組屋敷だった、と聞くからである。その樹の名木も、まだそっちこちに残っていて麗に咲いたのが……こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。 二条ばかりも重って、美しい婦の虐げ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・猿芝居、大蛇、熊、盲目の墨塗――――西洋手品など一廓に、どくだみの花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男の見世物があった事を思出す。 額の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人の二倍、やがて一尺、飯櫃形の天窓に・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。 横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・三頭も四頭も一斉に吠え立てるのは、丁ど前途の浜際に、また人家が七八軒、浴場、荒物屋など一廓になって居るそのあたり。彼処を通抜けねばならないと思うと、今度は寒気がした。我ながら、自分を怪むほどであるから、恐ろしく犬を憚ったものである。進まれも・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ と、何かさも不平に堪えず、向腹を立てたように言いながら、大出刃の尖で、繊維を掬って、一角のごとく、薄くねっとりと肉を剥がすのが、――遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い長提灯の影にひくひくと動く。 その紫がかった黒いのを、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・右手な神社のまた右手の一角にまっ黒い大石が乱立して湖水へつきいで、そのうえにちょっとした宿屋がある。まえはわずかに人の通うばかりにせまい。そこに着物などほしかけて女がひとり洗濯をやっていた。これが予のいまおる宿である。そして予はいま上代的紅・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・起って窓外を見れば、濁水を一ぱいに湛えた、わが家の周囲の一廓に、ほのぼのと夜は明けておった。忘れられて取残されたは、主なき水漬屋に、常に変らぬのどかな声を長く引いて時を告ぐるのであった。 三 一時の急を免れた避難・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
出典:青空文庫