・・・そんな連中が、飲食店に内地米の稲荷ずしでも売っているのを見つけようものなら、忽ち売切れとなってしまうのである。 そこで宿屋や、飲食店の商売繁栄策としても内地米が目標となる。 こんなのは、昨年の旱魃にいためつけられた地方だけかと思って・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・小さな稲荷のよろけ鳥居が薮げやきのもじゃもじゃの傍に見えるのをほめる。ほめられて見ると、なるほどちょっとおもしろくその丹ぬりの色の古ぼけ加減が思われる。土橋から少し離れて馬頭観音が有り無しの陽炎の中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・狐は何でもなかったが、それでも景戒の霊異記などには、もはや霊異のものとされていたことが跡づけられる。狐は稲荷の使わしめとなっているが、「使わしめ」というものはすべて初は「聯想」から生じた優美な感情の寓奇であって、鳩は八幡の「はた」から、鹿は・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・あのなかには、お稲荷をまつった社がある。林の裾のぽっと明るいところは、菜の花畠であって、それにつづいて手前のほうに百坪ほどの空地が見える。龍という緑の文字が書かれてある紙凧がひっそりあがっている。あの紙凧から垂れさがっている長い尾を見るとよ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・お稲荷さまを拝んでしまったあとの空虚を知らない。君たちは、たったいま、一の鳥居をくぐっただけだ」「ちぇっ! また御託宣か。――僕はあなたの小説を読んだことはないが、リリシズムと、ウイットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと、そんなもの・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
何ヲ書コウトイウ、アテ無クシテ、イワバオ稲荷サンノ境内ニポカント立ッテイテ、面白クモナイ絵馬眺メナガラ、ドウシヨウカナア、ト心定マラズ、定マラヌママニ、フラフラ歩キ出シテ、腐リカケタル杉ノ大木、根株ニマツワリ、ヘバリツイテ・・・ 太宰治 「走ラヌ名馬」
・・・須崎のある人から稲荷新地の醜業婦へ手紙を託されたとか云って、それを出して見せびらかしている。得月楼の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通る。これらが煩悩の犬だろう。松が端から車を雇う。下町・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・池の方へ下りる坂脇の稲荷の鳥居も、柱が立って桁が落ち砕けていた。坂を下りて見ると不忍弁天の社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり呑込めて来た。 無事な日の続いているうち・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・やがて稲荷を過ぐ。伏見人形に思い出す事多く、祭り日の幟立並ぶ景色に松蕈添えて画きし不折の筆など胸に浮びぬ。山科を過ぎて竹藪ばかりの里に入る。左手の小高き岡の向うに大石内蔵助の住家今に残れる由。先ずとなせ小浪が道行姿心に浮ぶも可笑し。やゝ曇り・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・三囲の稲荷堤上より拝し、腹まだ治まらねば団子かじる気もなく、ようやく百花園への道札見付けて堤を右へ下り、小溝に沿うてまがりくねりの道を行く半町ばかり。道傍、溝の畔に萩みだれ、小さき社の垣根に鶏頭赤きなど、早くも園に入りたる心地す。 この・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
出典:青空文庫