・・・お前はおれを失うのを悲しんでか、それとも、ほかの理由でか、声をあげて泣きながら、おれにくれるべき約束の慰労金を三分の一に値切った。もっともそれとても一生食うに困らぬくらいの額だったが、おれはなんとなく気にくわず、一年経たぬうちに、その金をす・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・それでは今夜はひとつゆっくりと、おやじの香典で慰労会をさしてもらおうじゃないか」 連日の汗を旅館の温泉に流して、夕暮れの瀬川の音を座敷から聴いて、延びた頤髯をこすりながら、私はホッとした気持になって言った。「まあこれで、順序どおりに・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・言うまでもなく非常に止められたが遂には、この場合無理もない、強て止めるのは却って気の毒と、三百円の慰労金で放免してくれた。 実際自分は放免してくれると否とに関らず、自分には最早何を為る力も無くなって了ったのである。人々は死だ妻よりも生き・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 但し富岡老人に話されるには余程よき機会を見て貰いたい、無暗に急ぐと却て失敗する、この辺は貴所に於て決して遺漏はないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解ることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いとこ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・その他曰く何、曰く何と相接触して居る関係点は非常に沢山あることでござりまするから、それらをいちいち遺漏無く申上げる事は甚だ困難の事で、かつまた一席の御話には不適当な事でございますから、ただ今はただ馬琴の小説中に現われて居りまする人物と当時の・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ 現在既知の科学的知識を少しの遺漏もなく知悉するという事が実際に言葉通りに可能であるかどうか。おそらくこれは六かしい事であろう。しかし特殊の題目について重なる学術国の重なる研究者の研究の結果を up to date に調べ上げて、その題・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・もちろん当局でもそのへんに遺漏のあるはずはないが、しかし一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の真因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ない代わりに、同じ原因による事故の犠牲者が跡を絶たないということが珍しくない・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・しかしながら実際の自然現象を予報せんとする場合に、この現象を定むべき主要条件を遺漏なく分析する事は必ずしも容易ならず。故に各種原因の重要の度を比較して、影響の些少なるものを度外視し、いわゆる「近似」を求むるを常とす。しかしてこれら原因の取捨・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・実はこういうように原稿紙へノートが取ってありますから、時々これを見ながら進行すれば順序もよく整い遺漏も少なく、大変都合が好いのですけれども、そんな手温い事をしていてはとても諸君がおとなしく聴いていて下さるまいと思うから、ところどころ――では・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・この頃よくある停年教授の慰労会が催されるのらしい。もう暑苦しいといってよい頃であったが、それでも開け放された窓のカーテンが風を孕んで、涼しげにも見えた。久しぶりにて遇った人もあるらしい。一団の人々がここかしこに卓を囲んで何だか話し合っていた・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫