・・・その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。 やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川賢というような思いがけない・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「あれは、たしかに私が、青森の部隊の営門まで送りとどけた筈ですが。」「そうです。それは私も知っています。しかし、向うの憲兵隊から、彼は、はじめから来ていない、という電話です。いったいならば、憲兵がこちらへ捜査に来る筈なのですが、この大雪・・・ 太宰治 「嘘」
・・・人の誠実を到底理解できず、おのれの自尊心を満足させるためには、万骨を枯らして、尚、平然たる姿の二十一歳、自矜の怪物、骨のずいからの虚栄の子、女のひとの久遠の宝石、真珠の塔、二つなく尊い贈りものを、ろくろく見もせず、ぽんと路のかたわらのどぶに・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・僕たち、さびしく無力なのだから、他になんにもできないのだから、せめて言葉だけでも、誠実こめてお贈りするのが、まことの、謙譲の美しい生きかたである、と僕はいまでは信じています。つねに、自身にできる限りの範囲で、それを為し遂げるように努力すべき・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・自分の子供の時分に屋内の井戸の暗い水底に薬鑵が沈んだのを二枚の鏡を使って日光を井底に送り、易々と引上げに成功したこともあった。 日本橋橋畔のへリオトロープは単なる子供のいたずらであったであろうが、同じようなのでただの悪戯ではない場合があ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・それで敵から砲弾を見舞われて黙っていられないと同様に、侮辱に対して侮辱を贈り返すのである。速射砲や機関銃が必要であると同様に、切手は最も必要な利器である。」いかにもP君の言いそうな事ではあるが、もしやこれがいくぶんでも真実だとしたら、それは・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・先生はこういう時、つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越して来た日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角の家にもこれと同じような冬の日が幾度となく来たのであろう。喜多川歌麿の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍ったのであろう。馬琴北斎も・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「北の方なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉に晴れがたき雲の蟠まりて、弱き笑の強いて憂の裏より洩れ来る。「贈りまつれる薔薇の香に酔いて」とのみにて男は高き窓より表の方を見や・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・二十年前大学の招聘に応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人も停車場へ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。 静かな先生は東京で三度居を移した。先生・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・非役の輩は固より智力もなく、かつ生計の内職に役せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫