・・・湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人吹革もて烈しく炭火を煽り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしく・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 原は聞いて貰う積りで、市中には事業があっても生活が無い、生活のあるのは郊外だ――そこで自分の計画には角筈か千駄木あたりへ引越して来る、とにかく家を移す、先ず住むことを考えて、それから事業の方に取掛る、こう話した。「それじゃあ、家の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・かずかずの心に懸ることがあの子にはある。年若い農夫としての太郎は、過ぐる年の秋の最初の経験では一人で十八俵の米を作った。自作農として一軒の農家をささえるには、さらに五六俵ほども多く作らせ、麦をも蒔かせ、高い米を売って麦をも食うような方針を執・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・半年は掛かるよ。」中尉はこう云って、小さい銀行員を、頭から足まで見卸した。「ええ。僕がいないと、銀行で差支えるのですが、どうにかして貰えないことはなかろうと思います。」実はこれ程容易な事はない。自分がいなくても好いことは、自分が一番好く・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・自然現象予報の可能程度を論ずる際に忘るべからざる標準の一つはここに係る。後に更に実地問題につきて述ぶる事とせん。 次に原因を定むる独立変数と称するものの性質が問題となる。変数が長さ、時間、あるいはこれらの合成によりて得らるるものならば比・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・それでまずこの境界線のはえぎわを整理した後に平たい面積に掛かるほうが利口らしく思われた。しかしこのはえぎわの整理はきわめてめんどうで不愉快であって、見たところの効果の少ない割りの悪い仕事であった。 おしまいにはそんな事を考えている自分が・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ ゾラの所論によると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊びに出掛るような熱心な興味を感じてはいなかった。その証拠は時代風俗の反映たるべき文学を見ても、十七、八世紀の文学上には一ツとして今日の抒情詩人が歌ってい・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・よっぽどひまが掛るのか。」「相済みません、この通りで御在います。茅場町までつづいておりますから……。」 菓子折らしい福紗包を携えた彼の丸髷の美人が車を下りた最後の乗客であった。二 自分は既に述べたよう何処へも行く当て・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なればかく果敢なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜から、今日までに変化した因縁はどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか」「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫