・・・二部屋あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提げながら、母屋の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するな・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・自分等も借りて食っているのである。 老人はまだ両腕を高く上げて、青年の顔を見ている。「さあ、今のは笑談だと、つい一言いってくれ」とでも云いたそうな様子である。しかし青年の顔はやはり心配げな、嘆願するような表情を改めない。その目からは、老・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・女房の方では少しもそんなことは知らないでいたが、先達ある馬方が、饅頭の借りを払ったとか払わないとかでその女房に口論をしかけて、「ええ、この狐め」「何でわしが狐かい」「狐じゃい。知らんのか。鏡を出してこの招牌と較べてみい。間抜けめ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 昨年、九月、甲州の御坂峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰る・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・ 先ずノイレングバハに別荘を借りた。ウィインから急行で半時間掛かる。風景はなかなか好い。そして丸で人が来ない。そこに二人は気楽に住んでいる。風来もののドリスがどの位面白い家持ちをするかと云うことが、始て経験せられた。こせこせした秩序に構・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・私はさっそくそれを借りてきて読んだ。 この日記がなくとも、『田舎教師』はできたであろうけれども、とにかくその日記が非常によい材料になったことは事実であった。ことに、死一年前の日記が……。 この日記は、あるいはこの小林君の一生の事業で・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・宿の番傘を借りて明神池見物に出掛けた。道端の熊笹が雨に濡れているのが目に沁みるほど美しい。どこかの大きな庭園を歩いているような気もする。有名な河童橋は河風が寒く、穂高の山塊はすっかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香いが・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・高等小学校の理科の時間にTK先生という先生が坩堝の底に入れた塩酸カリの粉に赤燐をちょっぴり振りかけたのを鞭の先でちょっとつつくとぱっと発火するという実験をやって見せてくれたことを思い出す。そのとき先生自身がひどく吃驚した顔を今でもはっきり想・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・長いガラスの円筒の直径をカリパーのようなもので種々の点で測らせ、その結果を適当な尺度に図示して径の不同を目立たせて見るのもよい。これはつまらぬ事件のようであるが、実際自分の経験では存外生徒の実験的趣味を喚起する効果があるようである。あるいは・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・「じゃ絹ちゃんが借りてやっているわけだね」「ここのお神さんはおひろちゃんですよ。私は世話焼きに来ているだけなんです。いつまでこんなこともしていられないんです。働けるうちに神戸へ行って子供の守でもしてやらなければ」そして彼女は汚れた肌・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫