・・・ お君は涙が一杯に溢れてくるのを感じながら、ジッとこらえてうなずいて見せた。――赤ん坊は何にも知らずに、くたびれた手足をバタ/\させながら、あーあ、あーあ、あ、あ……あと声を立てゝいた。「うまい乳を一杯のませて、ウンと丈夫に育てゝく・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・緑も添い、花も白く咲き出る頃は、いかにも清い秋草の感じが深い。この薫が今は花のさかりである。そう言えば、長く都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽し・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ 正木大尉は幹事室の方に見えた。先生と高瀬と一緒にその室へ行った時は、大尉は隅のところに大きな机を控えていた。高瀬は、大尉とは既に近づきに成っていた。「正木先生は大分漢書を集めて被入っしゃいます――法帖の好いのなども沢山持って被入っ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
一 私は今ここに自分の最近両三年にわたった芸術論を総括し、思想に一段落をつけようとするにあたって、これに人生観論を裏づけする必要を感じた。 けれども人生観論とは畢竟何であろう。人生の中枢意義は言うまでもなく実行である。人生観・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・寒さは余りひどくなかったが、単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような沈黙をなしている雪が、そこら一面に空虚と死との感じを広がらせている。いつも野らで為事をしている百姓の女房の曲った背中も、どこにも見えない。河に沿うて、河か・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それから引きつづいて、余震が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じ得たのが十二時間に百十四回以上、そのつぎの十二時間に八十八回、そのつぎが六十回、七十回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計千七百回・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・世の中の人は、皆、彼女が物を云わないので、ちっとも物に感じない、とでも思っているようでした。彼女の行末のことだの、心配だのを、彼女の目の前で平気に論判します。スバーは、極く小さい子供の時から、神が何かの祟りのように自分を父の家にお遣しになっ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢うと、私は、それと同じ痛苦を感じます。秋の朝顔も、コスモスと同じくらいに私を瞬時窒息させます。 秋ハ夏ト同時ニヤッテ・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ おのぞみどおり 博士は莞爾と笑いました。いいえ、莞爾どころではございませぬ。博士ほどのお方が、えへへへと、それは下品な笑い声を発して、ぐっと頸を伸ばしてあたりの酔客を見廻しましたが、酔客たちは、格別相手になっては呉れませぬ。それで・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・無闇に字面を飾り、ことさらに漢字を避けたり、不要の風景の描写をしたり、みだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみ、ただ実直に、印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。君には未だ、君自身の印象というものが無いようにさえ見える。それでは、・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫