・・・僕等は晩飯をすませた後、この町に帰省中のHと言う友だちやNさんと言う宿の若主人ともう一度浜へ出かけて行った。それは何も四人とも一しょに散歩をするために出かけたのではなかった。HはS村の伯父を尋ねに、Nさんはまた同じ村の籠屋へ庭鳥を伏せる籠を・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・蟹や寄生貝は眩ゆい干潟を右往左往に歩いている。浪は今彼の前へ一ふさの海草を運んで来た。あの喇叭に似ているのもやはり法螺貝と云うのであろうか? この砂の中に隠れているのは浅蜊と云う貝に違いない。…… 保吉の享楽は壮大だった。けれどもこう云・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ と附け足して、あとから訂正なぞはさせないぞという気勢を示したが、矢部はたじろぐ風も見せずに平気なものだった。実際彼から見ていても、父の申し出の中には、あまりに些末のことにわたって、相手に腹の細さを見透かされはしまいかと思う事もあった。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・しかしながら同時に一面には労働運動を純粋に労働者の生活と感情とに基づく純一なものにしようとする気勢が揚りつつあるのもまた疑うべからざる事実である。人はあるいはいうかもしれない。その気勢とても多少の程度における私生児らがより濃厚な支配階級の血・・・ 有島武郎 「片信」
・・・すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的であった。そうしてその思想が魔語のごとく当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人ばかり居た、恐いもの見たさの徒、ばたり、ソッと退く気勢。「や。」という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱るるかのごとく、廊下を彼方へ、隔ってまた跫音、次第に跫・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・その廚の方には人の気勢だになきを、日の色白く、梁の黒き中に、渠ただ一人渋茶のみて、打憩ろうていたりけり。 その、もの静に、謹みたる状して俯向く、背のいと痩せたるが、取る年よりも長き月日の、旅のほど思わせつ。 よし、それとても朧気なが・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ で、なんとなく、お伽話を聞くようで、黄昏のものの気勢が胸に染みた。――なるほど、そんなものも居そうに思って、ほぼその色も、黒の処へ黄味がかって、ヒヤリとしたものらしく考えた。 後で拵え言、と分かったが、何故か、ありそうにも思われる・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 直接に、そぞろにそこへ行き、小路へ入ると、寂しがって、気味を悪がって、誰も通らぬ、更に人影はないのであった。 気勢はしつつ、……橋を渡る音も、隔って、聞こえはしない。…… 桃も桜も、真紅な椿も、濃い霞に包まれた、朧も暗いほ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ ちと躾めるように言うと、一層頬辺の色を濃くして、ますます気勢込んで、「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」 と厭な目つきでまたニヤリで、「ほんとは夜来る方がいい・・・ 泉鏡花 「縁結び」
出典:青空文庫