・・・人の噂に依れば、私は完全に狂人だったのである。しかも、生れたときからの狂人だったのである。それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなった。何を人から言われても、外面ただ、にこにこ笑っていることにしたのであ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・この世界はどんなになるか、そんな話は、いったい実になるものかどうか。私は実になる話だと思っているが。 ヴァニティ。この強靭をあなどってはいけない。虚栄は、どこにでもいる。僧房の中にもいる。牢獄の中にもいる。墓地にさえ在る。これを、見て見・・・ 太宰治 「答案落第」
・・・「狂人の文学」はわれわれの文学では有り得ないであろう。それは狂人の思惟の方則と論理に従って動いているからである。それらの方則はもはやなんらの普遍性を持たない。これがおそらくまた逆に狂人というものを定義する一つの箇条であろう。 科学と・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・故野口英世博士が狂人の脳髄の中からスピロヘータを検出したときにも、二百個のプレパラートを順々に見て行って百九十何番目かで始めてその存在を認め、それから見直してみると、前に素通りした幾つもの標本にもちゃんと同じもののあるのが見つかった。 ・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・猫にとってはおそらく不可思議に柔らかくて強靭な蚊帳の抵抗に全身を投げかける。蚊帳のすそは引きずられながらに袋になって猫のからだを包んでしまうのである。これが猫には不思議でなければならない。ともかくも普通のじゃれ方とはどうもちがう。あまりに真・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・善ニョムさんは、まったく狂人のように怒り出して、畑の隅へ駈けて行くと天秤棒をとりあげて犬の方へ駈けていった「ち、ちきしょうめ!」 しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろをめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテらし・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・と、船会社の社長が言った半馬鹿、半狂人の船長と、木乃伊のような労働者と、多くの腐った屍とがあった。――一九二六、二、七―― 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・』僕はその語をきれぎれに聴きながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人のようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海から八十里も南西の方の山の中に行ったん・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ エリカ・マンには、女性にめずらしい特長があり、疲れを知らない行動力、強靭な運動神経がある。ヘンリー・フォードが催したヨーロッパ早まわり競争に参加して、十日間に六千マイルを突破して一等になり、フォードより自動車を一台おくられたことがある・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・に即さず一つの社会的な事実としてこの事を観察すると、私は、日本の現在の階級対立のけわしさや、そのきびしい抑圧の中からも何かの可能性をひき出し、たとえ半歩たりとも具体的に前進しようとする階級の、いよいよ強靭にされる連帯性、積極性の大小さまざま・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
出典:青空文庫