歌の口調がいいとか悪いとかいう事の標準が普遍的に定め得られるものかどうか、これは六かしい問題である。この標準は時により人により随分まちまちであってその中から何等かの方則といったようなものを抽き出すのは容易な事とは思われない・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・桂三郎はのっしりのっしりした持前の口調で私の問いに答えた。「これからあなた、山手まではずいぶん距離があります」 広い寂しい道路へ私たちは出ていた。松原を切り拓いた立派な道路であった。「立派な道路ですな」「それああなた、道路は・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・それから此方じゃ、区長、兵事掛。兵事義会の重立ち、何でも礼服を着た方が三方か四方送って下すった。 職業は瓦屋でござえんすけれど、暫らくでもお上の役を勤めていたばかりで、大層お手厚い葬礼でね。此方とらの餓鬼が、屋根から落ちて死んだって、誰・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 石の卓に片肘をついている深水の演説口調を、三吉はやめさせたいが、彼女は上体をおこして真顔できいている。たかい鼻と、やや大きな口とが、すこしらくにみられた。三吉はわざとマッチを借りたりして妨害するが、深水の演説口調はなかなかやまない。そ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・と婆さんは大軽蔑の口調で余の疑を否定する。「同じ事で御座いますよ。婆やなどは犬の遠吠でよく分ります。論より証拠これは何かあるなと思うとはずれた事が御座いませんもの」「そうかい」「年寄の云う事は馬鹿に出来ません」「そりゃ無論馬鹿に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・女は例のごとく過去の権化と云うべきほどの屹とした口調で「犬ではありません。左りが熊、右が獅子でこれはダッドレー家の紋章です」と答える。実のところ余も犬か豚だと思っていたのであるから、今この女の説明を聞いてますます不思議な女だと思う。そう云え・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・やがて宴が始まってデザート・コースに入るや、停年教授の前に坐っていた一教授が立って、明晰なる口調で慰労の辞を述べた。停年教授はと見ていると、彼は見掛によらぬ羞かみやと見えて、立つて何だか謝辞らしいことを述べたが、口籠ってよく分らなかった。宴・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
学者安心論 店子いわく、向長屋の家主は大量なれども、我が大家の如きは古今無類の不通ものなりと。区長いわく、隣村の小前はいずれも従順なれども、我が区内の者はとかくに心得方よろしからず、と。主人は以前の婢僕を誉め、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・あるいは口調をよくして「学校はいらぬ子供のすてどころ」といわばなお面白からん。斯る有様にては、仮令いその子を天下第一流の人物、第一流の学者たらしめんと欲するの至情あるも、人にいわれぬ至情にして、おそらくは事実には行われ難からん。枯木に花を求・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・なるほど、細根大根を漢音に読み細根大根といわば、口調も悪しく字面もおかしくして、漢学先生の御意にはかなうまじといえども、八百屋の書付に蘿蔔一束価十有幾銭と書きて、台所の阿三どんが正にこれを了承するの日は、明治百年の後もなお覚束なし。 こ・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
出典:青空文庫