・・・で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた、というようにでも書き続けて行こうとも思って、夕方近くなって机に向ったのだったが、年暮れに未知の人からよこされた手紙のことが、竦然とした感じでふと思いだされて、自分はペンを措いて鬱ぎ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 二十日の暮れて間もない時分、カツカツとあわただしい下駄の音がしました。病人が例の耳で、「良吉だ、試験はよかったなあ」という間もなく入口ががらりと開いて「お母さん、はいりました」と言いつつ弟は台所に上って、声を上げて泣きだしました、この・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・海は暮れかけていたが、その方はまだ明るみが残っていた。 しばらくすると少年達もそれに気がついた。彼は心の中で喜んだ。「四十九」「ああ。四十九」 そんなことを言いあいながら、一度あがって次あがるまでの時間を数えている。彼はそれ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ せめて士官ならばとの今日のお手紙の文句は未練に候ぞ大将とて兵卒とて大君の為国の為に捧げ候命に二はこれなく候かかる心得にては真の忠義思いもよらず候兄はそなたが上をうらやみせめて軍夫に加わりてもと明け暮れ申しおり候ここをくみ候わば一兵士なが・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・新しく、とらわれずに真理を求めようとする年少の求道者日蓮にとってはそのいずれをとって宗とすべきか途方に暮れざるを得なかった。のみならず、かくまちまちな所説が各々真理を主張することが真理そのものの所在への懐疑に導くことはいつの時代でも同じこと・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 昨年、暮れのことである。 火を入れた二番口の醤油を溜桶に汲んで大桶へかついでいると、事務所から給仕が健二を呼びに来た。腕にかゝった醤油を前掛でこすり/\事務所へ行くと、杜氏が、都合で主人から暇が出た、――突然、そういうことを彼に告・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・まだ暮れたばかりの初夏の谷中の風は上野つづきだけに涼しく心よかった。ごく懇意でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚の中村の家を訪い、その細君に立話しをして、中村に吾家へ遊びに来てもらうことを請うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来ていない一時の、すべてのものがその動きと音をやめている時だった。私はそのなごやかな監獄風景を眺めながら、たゞお湯の音だけをジャブ/\たてゝ、身体をこすっていた。ものみんなが静かな世界に、お湯のジ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。 茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人ずつその柱を・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ このあたりの見渡しは、この時のみは何やら意味があるようであった。暮れて行く空や水や、ありやなしやの小島の影や、山や蜜柑畑や、森や家々や、目に見るものがことごとく、藤さんの白帆が私語く言葉を取り取りに自分に伝えているような気がする。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫