・・・の表現とこの永瀬さんのこの詩の言葉とは何と相異しながら、女性としての感覚においては同じ本質をもっていることだろう。 永瀬さんは、女の歴史、日本の女の成長の酸苦を「麦死なず」のなかにうたっている。私らにとっては樹木が自然の季節・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・一年生として入学した年の夏、その丘の下いっぱいが色とりどりの罌粟の花盛りで、美しさに恍惚としたことがあった。それ以来、そこは私をそっと誘いよせる場所になって、よくそこへも本をもって行ってよんだ。落葉の匂い、しっとりとした土の匂い、日のぬくも・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ 数年前或ところで醤油の味を殆どけした極めて美味いだしでひや素麺をふるまわれたことがあった。その味と素麺のつるつるした冷たさ 歯ぎれ工合が異常な感覚的実現性をもってモスクの一米ある壁の此方まで迫って来たのだ。 臥て居た間自分の心に最・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・帝国主義と軍国主義とを主題にした「赤いけし」がソヴェトの新しいバレーとして紹介されてから数年たつ。 ソヴェト市民は新来の外国人を見ると、先ずいつも訊くだろう。 ――赤いけしを観ましたか? しかし、それを観てしまうと、もうほんとに・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・を書いておられたが、私は坪内先生の一生をあるべきとこにあって完璧たらしめた先生の聰明、努力、達見、現実性を学ぶとすれば、それは私の時代のものにとっては必然的に白鳥氏の言葉にふくまれているものとは全く相異した形をとって、現実にはあらわれて来る・・・ 宮本百合子 「坪内先生について」
・・・このごろの上下の衆のもどらるゝ 去来腰に杖さす宿の気ちがひ 芭蕉二の尼に近衛の花のさかりきく 野水蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉芥子あまの小坊交りに打むれて 荷・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・一つ罌粟の実になって、私の掌に乗ってもらえたら思い残すところはありません」 天狗は馬鹿にしきった顔で、「ヨシ来た。俺は何んにでもなってやる」と小ッちゃい罌粟粒になって百姓の掌に乗った。そこで百姓は自分が人間であったことを喜びなが・・・ 宮本百合子 「ブルジョア作家のファッショ化に就て」
出典:青空文庫