・・・エヘンとせき払いをすると、向う端で誰かゞ、エヘンと答える。それから時には肱で、壁をたゝいて、合図をした。 そのコンクリートの壁には、看守の目を盗んで書いたらしく、泥や――時には、何処から手に入れるものか白墨で「共」という字や、中途半端な・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・とよ。」 何かよい事でも期待するように、次郎は弟や妹を催促した。火鉢の周囲には三人の笑い声が起こった。「だれだい、負けた人は。」「僕だ。」と答えるのは三郎だ。「じゃんけんというと、いつでも僕が貧乏くじだ。」「さあ、負けた人は・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・貧苦に堪える力は家内の方が反って私より強い……」 しばらく石のような沈黙が続いた。そのうちに微かに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立って斑白に見えるように成った。学士は楽しそうに両手や身体を動かして、胡・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ これこそはそのわかいおかあさんにはいちばんつらい問いであるので、答えることができませんかった。おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。 ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進み・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・窓は答える筈はなかった。 嘉七は立って、よろよろトイレットのほうへ歩いていった。トイレットへはいって、扉をきちんとしめてから、ちょっと躊躇して、ひたと両手合せた。祈る姿であった。みじんも、ポオズでなかった。 水上駅に到着したのは、朝・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・「わびしさを堪える事です。」 自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。「敗北とは何ですか。」「悪に媚笑する事です。」「悪とは何ですか。」「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。・・・ 太宰治 「かすかな声」
・・・りなんかしない、過剰な感傷がないのだ、平気で孤独に堪えている、君のようにお父さんからちょっと叱られたくらいでその孤独の苦しさを語り合いたいなんて、友人を訪問するような事はしない、女だって君よりは孤独に堪える力を持っている、女、三界に家なし、・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・分が今日まで軍国主義にもならず、節操を保ち得たのは、ひとえに、恩師内村鑑三の教訓によるなどと言っているようで、インターヴューは、当てにならないものだけれど、話半分としても、そのおっちょこちょいは笑うに堪える。 いったい、この作家は特別に・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・しかも、また、貧乏に堪える力も弱いので、つい無理な仕事も引受けます。お金が、ほしくなるのです。ラジオ放送用の小説なども、私のような野暮な田舎者には、とても、うまく書けないのが、わかっていながら、つい引受けてしまいます。田舎者の癖に、派手なも・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・私がGの絃で話せば、マリアナはEの絃で答える。絃の音が、断えては続き続いては消える時に、二人は立止まる。そして、じっと眼を見交わす。二人の眼には、露の玉が光っている。 二人はまた歩き出す。絃の音は、前よりも高くふるえて、やがて咽ぶように・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
出典:青空文庫